真理を探求する旅の落とし穴

 

 

真理を知りたい、真理に到達したい

 

それはどうして?

 

そこへ向かう事が求めている事だから。正解を知りたいから。

 

その正解を知って何を感じたいの?

 

安心したい。

 

どうして安心したいの?

 

私の進んでいる方向で間違っていないって言って欲しい。不安なのかもしれない。

 

誰に言って欲しいの?

 

信用できる人に。絶対的な存在に。

 

それは誰のこと?そういう存在が見えたりしたら、それで安心するの?

 

いや…ようやく正解を言ってくれる人が現れた!と思ってしまうかもしれないけど、そうなると、そもそも自分にも有るであろう欠乏感が依存心となって、自分で判断するよりも盲目的にその存在を信用してしまうかもしれない。そこに自分の判断が無くなる危険性を察知して、安心はしないかも。

 

じゃあ、誰なら信用できるの?

 

……多分、自分しかいない。

 

じゃあ、自分が自分にその道で大丈夫だよ、って心底言ってあげたら安心するの?

 

うん…でも違う気がする。

 

どういうこと?

 

思ったんだけど、そもそも真理を求めているということは、真理に向かって進んでいるっていうベクトルが発生する。

 

という事は、現状では真理に到達できていないから、ゴールへ向かって進んでいるということになる。

 

そして、今思ったんだけど、真理を求めていると、『真理ではないもの』が同時に発生しているんだよね。

 

わたしは真理でないものに引っ張られたくない、っていつも思っているんだよ。

 

でも、そもそも『真理でないもの』というのは私が作った概念なんだよね。

 

真理と真理でないものに分けているのは私で。

 

その真理と感じるものは、そもそも私がこれまで採用してきた概念が多分に入っている『私だけが思う真理』であって、追い求めている万物の真理とは違うんじゃないか?

 

…だって立ち位置が変われば見方が変わるわけで、誰にとっても人それぞれの真理があり、それは人類の共通事項ではないのだから。

 

私が追い求めていたのは、絶対的な真理だったのに、実際には、ジャッジに基づいた私が作り出した概念の中の真理だったんだよ。

 

……そう思ったらなんか笑えてくる。

 

 

そこから何を見る?


真理も真理でないものも、追い求めた瞬間に発生する。追わなければそもそも発生しない。

 


ということは?

 


真理などは無く、本当はただ今この瞬間に目の前にあるものが全て。