『悟り』について思うこと

 

『悟りたい』

 

この想いがいつも私の中にあります。

恐らくこの3年間、『悟り』とはどの境地なのか?を知りたくて進んできたように思います。しかし『悟り』とはなんなのか。それは何処なのか。何をもって『悟った』と認定されるのか、わからないままです。

 

それは『ワンネス』だとか『宇宙意識』だとか『愛』だとか、いろいろな言い方をされます。そして『全ては今ここにある』とも。

 

私はこの3年間で、日常のあらゆる事から自分自身をがんじがらめにしてきた思い込みに気づき、一つ一つ手放して来ました。でも、まだ『悟り』ではない。

 

『悟る』為には、滝に打たれたり、インドでヨガ修行をしたり、出家したり、断食したりしないと到達出来ないイメージがありますが、私はそうは思っていなくて、あくまでもただの人間が、日常の中で、気づきを重ねた先に『そのような状態になっていた』ものだと感じます。サイキックであるかどうかも、悟りとは全く関係ないと思っています。

 

私はこの3年間、

 

目の前に現れる事象に対して

私の感情が反応した時

その感情に対して自動的に反応(ジャッジ)する思考を、ひたすら観察する。

 

を淡々としてきました。

 

3年前は、もうそれは嵐のように、日常の細かな所でいちいち傷ついて、それを相手のせいにしたり、または自分がダメだからと悲観したりしていました。

 

しかし、そうではない。とわかってきてからは、ただ発生した感情をジャッジせずに全て受け入れ、観察し、手放してきました。それは全てインナーチャイルドに起因する事であり、感情が反応した時は潜在意識に仕舞い込まれた古い感情を浄化する絶好の機会なんですね。

 

潜在意識をお掃除する為に、日常のあらゆる場面で感情の揺さぶりを受けるんです。『気づいて。同じ思いを昔したんだよ。その気持ちを自分で否定して閉じ込めたんだよ。』って…目の前の同じような状況によって潜在意識の感情が再生されて、追体験しているんですね。だから、そんな時はまた昔と同じように、『自分を守る術として感情に蓋をする』を繰り返すんじゃなくて、その感情をただ、ただ、全肯定してあげてください。

 

私はそんな地道な道を一歩一歩、螺旋階段を昇るように進んできました。今の私は、日常の出来事に嵐のように反応する事が、かなり減りました。それは感情を失ったのとは違って、エネルギーを常に自分に向けられるようになったので、何かトラブルがあっても感情を感じたら、その感情に思考が反応している事を、わかっている自分がいる、という事です。なので、余計な反応というものが格段に減ったという状態なのです。全てがなくなる訳ではありません。エゴもまた自分の一部で生きる上で必要だから反応しているので、ああ、そうだよね。と認めている感じです。とても生きやすくなりましたし、日常に幸せを感じることが増えました。

 

それでもまだ『悟り』ではない。この道を進むことと、『悟り』はまた違うのか。

 

世の中には『覚醒体験(一瞥体験)』を経験される方もいます。何かのキッカケで一瞬にして真理を体験してしまう。けれど、一瞬垣間見たそれは強烈で絶対的な真理で至福なのかもしれないけれど、悟ったのとは違うので、永遠にその状態ではいられずに垣間見ただけで結局生身の自分の姿に戻る。真理を体感してしまったが為に、現状の自分のエゴと強烈に向き合わなければならないのだから、むしろ大変ですよね。蓋をしてきた自分の闇が見えすぎるくらい見えるんですから、かなりの荒療治と言えるかもしれません。以前は『悟りたい』と思って、覚醒体験をすることへの羨ましさがあったのですが、そんなジェットコースターのような体験はしんどいな、と思うようになりました。

結局のところ、私のような普通の?人は、本の最初のページから読み進めてラストまで到達する、覚醒体験をした人は、物語のラストを読んでしまったけれど、結局最初のページに戻されて、それでもそこからまた1ページ、1ページ読み進んでいくしかないんだろう、と。そういう真理を垣間見る経験をした人は世の中にわりといるらしいです。その苦しさから長く鬱状態になる人もいます。

 

どんな人生もその人それぞれの学びの途中と感じます。そしてその学びに優劣はなく、全ての人の全ての体験が尊いと思います。