幸せを感じるために生まれてきた

 

 

 

 

昨日ブログを書こうとして、最初の一行を書いて…その後は違う話になってしまいました💦

 

毎回これを書こう…とボンヤリ浮かぶと、スマホに向かうのですが、あとは無の状態で自動書記に近いです。

 

それが、書こうと思っていた内容と変わっていました。今日リベンジで書きましたが、読み返したらまた少し変わっていました。書こうと思った事はまだ時期じゃないのかもしれません…( ̄▽ ̄;)

 

 

『私たちは幸せを感じる為に生まれてきた』

というキーワードだったのですが。

 

 

これは何からそう思ったのかというと、事の始まりは

 

『分散登校が始まり、当初の予定には無かったが、給食を食べて帰る事になった』ことでした。

 

子どもの栄養の問題もありますし、家庭によっては日中は親が仕事で不在だったりします。どうせ分散登校で学校へ行くなら給食を食べて欲しいと望む声があった様で、それに応える形で急遽給食を支給した、という流れです。

 

ただコロナの事もあるので、感染のリスクを減らす為に、給食は配膳はせず個別包装したもの、換気をする、向かい合わせの席などにせず、おしゃべりはしない、というものでした。

 

それで、何を食べたかというと『レトルトカレー』だったそうです。

 

賞味期限5年のもので既に2年を経過したものでした。うちの子供らは不味くて胃もたれし、気持ち悪い…と言っていました。

 

学校給食の本当の意義は、本来はどんな事情がある家庭の子供でも、1日一食の給食だけは、栄養のバランスがとれた温かい食事を、すべての子供が同じものを食べれる、というものだと私は認識していました。それが添加物だらけのレトルトで、友達と会話もできない。

 

 

レトルト食品を出す

万が一でも保菌者がいれば一大事になるため、調理や配膳の工程を省き、リスクを最小限にする。

 

食事中にコミュニケーションをとらない

万が一でも保菌者が居れば、マスクを外した状態での食事はリスクがあるため、一方向を向かせ会話させない。

 

 

『感染のリスクから子供達を守るための、正しい愛ある行為』と捉える人もいるかもしれませんが、私は全てにおいて『恐れベース』の判断だなーと感じました。

 

恐れベースとは、都合の悪い未来を予測して、それを避ける為の選択をする。つまり、悪い事が起きるのが前提なんです。世の中は怖いものだから、とにかく防衛するわけです。

 

そうやって身を守ります。…これはエゴが危機感を持って仕事をしている状態です。

 

先生個人としては様々な考えあれど、社会的、政治的に見て、また市の方針、学校の方針、いろんなしがらみ、世間の圧力などの板挟みで、苦肉の策なのだろうと感じます。

 

とにかく文句が出ないように、感染者が出たとしても対策は万全だった事を証明できるように、って発想なんだろうなぁ、と思いました。

 

 

学校って何のためにあるのでしょう。

勉強は何のためにするのでしょう。

食事はどうして取るのでしょう。

会話はなぜするのでしょう。

 

 

それは、『幸せを感じるため』です。学校に限らず、私達が人生を送る意味は、ただそれだけです。どんな場所でも、どんな経験でも、それは幸せを感じる為にあります。

 

読み書きができれば、この世に存在するあらゆる書物や、情報を好きなだけ得ることができる、その幸せを感じる為です。

 

学校の勉強も、全て知識を得る喜びを感じる為です。そこから発展して自分で発想を拡大していく為です。

 

沢山の同級生と共に学ぶのは、出会いが増え、関わることで、様々な感情体験をする為です。これら全てが

『幸せを感じるため』にあります。

 

 

 

勉強をしないと希望の大学へ行けないよ。

学校へ行かないと友達ができないよ。

『◯◯しないと、こんなに恐ろしい事になるんだよ。だから、◯◯しなきゃいけないよ』

 

…恐れがベースだと、欠乏感を埋めるための勉強、欠乏感を補う為の人間関係、という場になってしまう。もったいないですね。

 

 

今回、せっかくこのように、世界中が考え直す機会に恵まれました。私たちは、ただ幸せを感じるために生きています。

 

いつまでも戦後の義務教育のやり方を続けるのは、無理があります。全国の不登校の児童数を見れば、子ども達が今までのやり方にNO!を突きつけているのはわかります。

 

疑問や違和感をうやむやにできない子供達。これはとても良い兆しで、教育がこれ迄よりも素晴らしい方向に向かう可能性を秘めています。

 

 

コロナ休校が続き、子ども達は『毎日は学校に行かなくていいんじゃないか?』と思い始めたかもしれません。不登校も更に増える気がします。現場の先生も、勉強も遅れるし、大変だと思います。

 

 

誰のための学校、誰のための学びなのだろう。

何のためにその存在があるのだろう。

それは誰の方を向いているのだろう。

 

 

先生だって、本当はもっとゆとりを持って、子どもと関わり、共に成長する喜びを感じたいですよね。

 

学力で世界と肩を並べる人間を作る必要は、どこにあるのかな。それは、それぞれのペースや、幸せよりも、優先されるものなのかな?

 

 

じわじわ、じわじわ、長い時間をかけて、もう無理だ、もう嫌だ、と子ども達や、教師達の不満が蓄積されてきました。陰が極まり陽に転じ、もう反転の時です。

 

だから、今はとっても素晴らしい時なんです。社会全体がこうなって、集合意識が変化していきますから、大きな仕組みも変わりやすいです。

 

怖い未来を予測した防衛ではなくて、幸せを選ぶ愛の波動の時代の到来です。

 

あなたの感じる幸せを、小さな喜びの連続を、ただ味わって生きて良いのです。

 

 

…個人の意識の変化から既に自由を感じて生きている方も多く居られると思いますが、今回は社会全体が変化を迎えそうです。

 

 

やはり、全てが贈り物ですね。