「答えを知りたい」
この心理は、多くの方がお持ちなのではないでしょうか。この当たり前に沸く感情について、「なぜだろう?」と考えたことはありますか?
それは、「わからない状態」を「不安」だと判断しているから、です。
小学校、中学校、高校・・・必ず「答え」にたどり着く事を求められましたよね。問題には必ず回答が存在し、「道徳」の時間ですら、こうある事が理想なのではないか?という共通認識に落としどころを見つけていく授業となりました。
「答えが存在している」・・・それが当然だと、思っていませんか?という、今日は問題提起です。
こうやって、「問い」には必ず「答え」があるものだ、という概念を、長年採用して生きていますと、「わからないこと」が出てくると、途端に不安になります。必死で答えを求めるのです。
しかし、人生において「1+1=2」のような、「明確な正解」など、ありません。そう、答えなんて無いのです。
でも、「答えはきっとどこかにある」と思い込んでいますから、例えば人生において自分では解決できないような難問に出会ったとき、また、どうも最近うまく行かないんだよなぁ・・・となる時、「何かから答えを得ようとする」のです。
だから、多くの人が答えにたどり着きそうな書物を求めたり、はたまた占いを見てみたり、スピリチュアルの高額セッションに申し込んだりするのです。
しかし、それで本当に「明確な答え」にたどり着くのでしょうか。それで完全にスッキリして、もう悩みは皆無になるのでしょうか。
その、書物や、占いや、セッションから得られる情報を、本当に全て丸呑みして受け取る事ができて、全て解決するのでしょうか・・・。
・・・なりませんよね。そうは、なりません。それは、「自分にとって納得できる言葉」を言われた時のみ、「受け取る」のです。「それは違う」と思った事については、「受け取らない」ですよね。自分にとって耳に優しい、都合の良い言葉だけが脳裏に焼き付いて、不都合な事はスルーです。その正解、不正解のカギを握っているは
・・・そうなんです。「自分の感覚」です。それしか、ありません。
だから、外側の何かから答えをもらおうとしても、その時は良い気分になったとしても、時間がたつとまた悩みがムクムクと出てくるんです。
「心の底から腑に落ちた!!」と体感が伴わなければ、本当にはわかっていない・・・のです。納得していないのです。
もちろん、セッションなどで言われた事が脳裏に残っていて、数年たって「ああ、そういう事か!!」と腑に落ちる事はあるかもしれませんが。
多くの方が、スピリチュアル難民になっている深層心理を思うに、やはり「わからない事をわからないままでいる事が不安である」というところが大きいのではないかと、思います。
そのブロックさえ外れれば、「わからなくても問題はない」となります。そうすると、「不安を悪い事だと認識しない」ので、「わからないまま漂う」事ができます。外のだれかに答えをもらう必要もなくなります。
常に意識が「今ここ、この瞬間」に在り続け、自分自身の感覚と体験を通して「ただ在る」となります。
未来を知りたいのも、前世を知りたいのも同義です。わからないことを、誰かに教えてもらう事によって、今感じている不安を払拭したいのですよね。しかし、それを知ってどうするのでしょうか。前世の自分が、今の自分とは違うどこかの国のお姫様だったり、遠い星の英雄だったり、天使だったりすれば、今の自分は救われるのでしょうか・・・。
例えば、来世の自分がいるとして、その自分が思い通りの人生でなかったとして、自分の前世(つまり現在の自分)を誰かに調べてもらう事によって救われようと考えたとしたら・・・あなたは、なんて言ってあげたいですか。
私ならば、「今のあなたが、あなたの魂史上で一番成長し、洗練されている姿だよ!!」と言いたくなります。魂の旅人である私たちは、常に進化成長し、変化拡大している存在であるのですから、前世の自分よりも、今の自分のほうが、より成長している存在であるから、です。
・・・もちろん、今が辛すぎてグチャグチャで、もう自分ではお手上げだ!!というときに、「それでも何も頼るな!」とは言いません(;´・ω・)・・・何かを頼りにすることで視界が開けることもありますから、その時は松葉杖を貸してもらって、怪我がよくなったら自力で歩いていきます。(いつまでも、いろんな松葉杖をとっかえひっかえしていたら、それはスピリチュアル難民になっています・・)
わからないことは、わからないままで大丈夫。
そう思っていれば、不安をわざわざ自分から生み出すこともなくなります。「正解の答え」が存在しているのではなく、ただ今この瞬間のみが存在している。私たちは、ただそれを享受し、感情体験を重ねる、それだけの事です。
「答え」はなく、「体験」だけ。
この、地球という舞台で体験した事、感じたこと、腑に落とした感覚・・・それは、100人いれば、100通りあって、そのどれもが「全て良し」なのではないかな・・・と思います。