器が広がり、愛は拡大する

 

 

 

これは、言葉の意味を辞書で調べたのではなくて、私の感覚なのですが、物事を理解していくには、このような段階を経ると思っています。

 

 

「知る」→「わかる」→「腑に落ちる」

 

 

 

知る

書物や、人との会話などから情報を得て、知識として認知する

 

わかる

それらの情報が、自分にとって有益だ、あるいはその考え方が好きだ、と受け入れる

 

腑に落ちる

自分にとって有益であると判断していた以前に受け入れた理解について、様々な経験、感情体験を経たのち、「感覚としてわかる、真に理解し魂に刻まれる」

 

 

 

 

世の中に既に出ている情報があって、それを見聞きしていて、「自分はそれを知っている」と思っていても、真に知るとなるのは「腑に落ちる」段階に来た時です。

 

 

 

その考えについては、もう何年も前から「知っていた」し、それに付随する考えや情報もたくさん得ていたし、「わってかいるつもり」だったけど、それと「腑に落ちる」はまた全然違うのですよね。

 

いったん腑に落ちると、数珠つなぎのように、「ああ、それならこれも…あれも…」と、点と点が線になり、真の理解へとなっていきます。

 

 

自分が理解したいと思う「テーマ」があるとします。

 

 

そのことについて、考え始めます。すると、それに関する情報を自分で探し始めますよね。それって、当たり前の行動だと思っています。特に気にも留めないかもしれません。

 

 

しかし、それは…

 

「自分の魂に質問を投げかける」と、「それに関する情報が集まってくる」という現象であって、努力の成果でも、偶然でもない、という事です。

 

 

そして、その行き当たった「情報」は、たまたまではなくて、「必要があって読まされた」ものです。

 

 

最短で有益な情報を得られれば良いのですが、そこも経験で、自分の中に、無自覚にまだ恐れがたくさんあるうちは、情報も「その波動と近いもの」がもたらされると思います。しかしそれも必然であって、その時の自分に理解できるものがやってくる…のです。そんな経験を重ねて、螺旋階段を昇る。回り道に思えても、それが最善という事です。一足飛びにジャンプはできず、その時の波動で理解できないものは、どんなに素晴らしくとも目に入りません。

 

 

このようにして、意識しようが、無意識だろうが、全ての人が自分の魂と繋がっていて、必要な事が常に起きている、という事になります。

 

 

しかし、「読まされた」「知識として納得した」となっても、先ほども申し上げましたように、それが即「腑に落ちた」とはならないんです。それには「体験」や「さらに深い熟考」「寝かせる時間」などが必要であるからです。

 

だから、すっかり知ったつもりになって、その議題については忘れたとしても、実は魂によって、その後もそれについての「時間」が与えられ、「体験」が降り、幾度となく真に腑に落とすように、導かれます。そうなったものしか、魂に刻まれる「叡智」にはならないからです。

 

 

そうやって膨大な時間をかけて、決して急かさず、無理強いをせず、なんの審判も下さず、ただ情報と体験だけを与えて……。

 

本人が腑に落ちるまで、ただひたすら待ち、見守る。その気の遠くなるような寛容さ。

 

 

 

 

全ての人は、今この瞬間、全てが最善であると、教えられました。しかし、それが腑に落ちるには、かなりの時間がかかりました。

 

 

 

今、この瞬間が完璧。

 

 

「だって、目の前の現実が全てうまく行っているとは思えない。理不尽な事もたくさんある。」

 

 

「そうなのかもしれないし、そう思えればいいのは理解できる…。けれど、本当にわかった…とはなれない」

 

↓(時間)

↓(熟考)

↓(できごと)

 

 

「腑に落ちる」

 

 

 

 

自分が正しいと思っている事と違う意見の人に出会うと、胸がチクチクしたりします。それは「自分の頭の中のルールと違う」と感じるからです。自分が正しいという位置からものを見ている証拠です。正しいと思っているから「間違った人」が現れます。

 

しかし、なぜそう感じたのかを自分に問う事で、自分へ課しているルールに気づきます。その繰り返しで「自分の中のジャッジする概念」がだんだん少なくなってきて、徐々に、「どの考えも、全てそのままで良し」と思えるようになってきます。全ての考えに優劣はなく、ただ存在していいのだと、自分にも相手にも思えてきます。

 

 

この究極の姿が「宇宙」です。宇宙には善悪もジャッジもありません。本当に無いんです。そして、それが「宇宙=愛」と言われる所以です。

 

 

人が、自分の中のジャッジ(恐れから生じる)を手放し、手放し、そうやってひたすら自分の器を拡大させた先に…

 

 

器は広がり、薄くなり、ついには「器ですら無くなり」空間に溶けて、宇宙と一体となる。なんのジャッジも無い世界です。

 

 

宇宙は愛そのもの…と言われているその姿は、「優しいとか、愛情がある」とかじゃなくて、「あらゆる全てを、ただそのまま受け入れる」こと。

 

 

宇宙即我、我即宇宙…。意識していても、無意識であっても、例外なく全ての人がここに導かれている…という事です。

 

 

 

自分の内面が反応して、善悪の基準が発動したり、誰かの考えを「それは違うだろう」と思ったとしたら、

 

 

「握りしめた、その、自分自身に課しているルールに、気づき、手放せ…」

 

 

 

という導きだと、理解してください。

 

 

段階を経て、その時々の腑に落とした感覚の中で、「全ては完全」だと思えてきます。確実に自分の器がまた拡大し、薄まりつつある、という感覚です。

 

日常の中で、また手放すものが見えてきたとき、ネガティブな気持ちがやってきて、一旦波動が下がったように感じますが、実はそうではなくて、さらに軽やかになるための一連の動きです。

 

 

これが永遠に繰り返され、拡大していきます。