「信じる」という言葉の解釈

 

 

昨日のレイキカフェに参加したとき、私の心の中で反応した言葉がありました。それは、「信じる」という言葉でした。

 

ティーチャーの白石庸子さんの昨日のブログを引用します。

 

 

ヒーラーは、
徹底的な自己浄化を行う、
それが最大の仕事だよ、
と言ってきましたが、
 
 
そこから一歩先へ進んだとき
 
 
「委ねる」
 
ということ、
学んでゆきます。
 
 
 
 
その根底に必要なものは、
「信じる」力です。
 
 
 
 
ここを、徹底的に育ててゆきます。
 
 
……………………………
 
 
 
「信じる」というのは、とても力強い言葉でもある、と私は感じます。
 
 
 
 
例えば、いわゆる不良といわれている高校生がいるとします。(一昔前の表現ですねぇ…💦)
 
見た目も怖くて、世の中を斜めに見ていて、とても荒れています。学校内でも生徒間のトラブルが絶えず、警察のお世話になる事もありました。
 
しかし、彼の前にはいつも、とある先生が立ちはだかります。とてもウザイです。先生はその子の心がとても傷ついている事を感じています。そして、実は彼が本当はとても優しい子だという事も信じています。
 
先生は、しつこく彼に付きまといます。
 
「俺は、お前を信じているぞ!お前が自分の事を諦めても、俺は絶対にお前を諦めないぞ!俺はお前が素晴らしい存在だって、わかってるからな!!」
 
 
生徒は、聞く耳を持ちませんが、先生が自分を「信じてくれている気持ち」が、彼の乾ききった、ひび割れた荒れ地のような心に、じわじわ…じわじわ……と浸透しはじめ、少しづつ自分を取り戻し始めるのです。
 
 
…と、こんなストーリーがあるとします。
 
この場合の「信じる」は、この先生が「どんなに汚れても腐っても、人間の魂の光は決して消えない」と「信じている」からこその行動であって、当の本人よりも、彼の事を信じたのですね。
 
そして、彼は自分の傷ついた心が、防御するように自分の魂に幾重にも布をかけて、本来の輝きを封じ込めていた事に段々気づき、その覆いを剥いでいく。自分ひとりでは挫けるけれど、そこに常に先生が寄り添ってくれたから、立ち直れた。
 
 
 
こういう「信じる」のストーリーは、いろんな場面で目にします。特に、先生と生徒、指導者と選手、など、人の成長に関わる教育現場では、この意識を強く持っている指導者は、多くの子ども達の可能性を伸ばす事ができるはずです。
 
 
 
 
「俺は、お前を、信じているぞ」
 
 
 
では、ヒーラーはどうでしょうか。ヒーラーにも同じことが言えるかもしれません。心に傷を負った人が多く訪れる現場です。けれど、「あなたは大丈夫」と本人以上に本人に対して「信じている」。そして、何があっても、どうあっても、「人生は大丈夫」「全ての事は大丈夫」と信じて、委ねている。
 
 
 
レイキカフェで何度も何度も「信じる」という言葉を繰り返されたのは、こういうニュアンスなのかな……と感じ、それはそれで、私もわかるのですが、やはり自分のなかに、この「信じる」に関しては、以前から引っかかりを感じていて、やはり、今回も何度も、何度も、内面が反応しました。
 
 
言葉、というのは、とても難しいな……と感じるのは、何度かブログには書いたのですけど、その言葉の解釈というものが、各個人の脳内のフィルターを通過して理解するものですから、発信者の思った感覚を、受信者が受け取るとは限らない…というか、受け取れない場合がほとんどと言ってよいかもしれません。
 
 
 
「信じる」
 
 
 
この言葉に、私自身が引っかかりがあるのは、この「信じる」という言葉の裏に、「期待」を感じてしまうからなのです。
 
 
 
「俺はお前を信じるぞ」
「私はあなたを信じているよ」
 
 
 
指導者や、寄り添う者、にとっては、これを気持ちや、言葉や、態度で示す事が、相手にとっての支えになり、本人が自分の力で生きるエネルギーを蓄えるまでの、強力なモチベーションになり得ます。そして、それが教える立場の人には、必要であると思います。
 
 
 
でも、やっぱり私には、そこは引っかかったまま……なんですね。本当のあなたは、素晴らしい存在で、今がどうでも、大丈夫なんだ、あなたは光そのものなんだ、、、というのは、もちろんその通りなのです。けれど、それを表現する時に「信じる」という言葉を、自分は選びません。ちなみに、「絆」という言葉も同じような違和感を感じています。どちらも、三次元的な重さがあります…。
 
 
 
 
ここにも段階があるのかな、と感じますが、自己浄化に対して無頓着な段階の人がいう「信じる」は、明らかに「状況に対して自分の良いと思う結果を期待して」います。
 
 
「あなたはもっと、認められる力があるって、私は信じているよ」「これだけ勉強したんだから、きっと合格するって信じているよ」「私がこれだけ尽くしたんだから、あなたは私を幸せにしてくれるって信じているよ」
 
 
……伝わりますかね? 重くないですか…(笑)  
 
 
信じている、って言っても、自分が良いと信じる未来ありきです(無自覚に)。自分の望んだように、外側の世界が変わってくれることを「期待」しているわけです。
 
 
こんなに頑張っているキミだから、きっとそうなれるはずだよ。私がこれだけ信じたんだから、その代わりに私が思うような結果がやって来るって期待しているよ。 
 
 
この場合の「信じる」は「委ねる」ではないですよね。 自分が良いと信じる未来、じゃないと、目の前の人も幸せでない……と決めている。それは、相手が選び、感じるものであるのに。
 
 
 
「信じる」=「期待」になるか、「信じる」=「委ねる」になっていくか…。
 
 
そもそも、信じる…という想念が3次元的な気がするので、委ねる…とは真逆のベクトルに感じるのですが、いづれにしても、やはり「自己浄化がどれだけ進んでいるか」によって、その言葉の感覚が全く変わってくる、と感じます。
 
 
自分の善悪の判断がいっぱいあればあるほど、相手に結果を期待して、信じます。ヒーラーですら、こういう人はいっぱいいると思うんですよね。自分の浄化が進んでいない事に向き合わずに、人を助けようとしているヒーラーさんは、世の中に沢山います。(それでもいいんです。それすら、その状況に意味があると思います)
 
 
 
 
私の中では、『知っている』の方が、しっくり来ます。
信じる、ではなくて、知っている、です。
 
 
 
誤解を恐れずにいえば、自分を含めて、あらゆる人が何を考えようと、どう思おうと、どんな行動を選択しようと、それが魂の光と逆行しているように見えても、「それでいいじゃないか」と思っています。
 
 
悩んでいる人は、悩みたいんだろうな…と思うし、荒れたい人は、荒れる必要があるんだろうな…と思うし、依存している人は、今は依存を経験しているんだな……としか、感じないのです。だから全て、それでいいじゃないか、と思っているんです。全てが正解で、本当にどれでもいいんです。
 
 
だって、そもそも全ての人にハイアーセルフが居て、ハイアーと二人三脚で、その状況にいるわけですから、どんな経験もなんでもアリで、そうやって地球で制限外しのゲームしているのだから、私が言いたいことなんて何も無いです…。
 
 
私みたいな考えの人は、人を導く3次元的なパワーみたいなものは、沸いてこないのです。その状況に問題があると思えず、変えたいものが無いからです。
 
 
 
もともと持っている資質とか、性格も、ここには関わってくるとは思うのですが、パワーを発揮する人は、世の中に一定数存在しています。それは、人と関わる事に人生の重心がある人、ですね。人間が好き、人の成長が好きな人…。現実を生きる力が強い人、ですね。
 
 
そういう人達が、様々な発言をすることによって、多くの人に影響を与え、集合意識が軽くなっていくものですから、今の世の中の意識が変化してきたのは、確実に、そんな意識の力なので、本当に凄いなーと思うんです。
 
 
でも、自分はそこじゃないんだな……と冷静に感じます。そこにはパワーが出ないわ……というか、興味がわいてこない……。
 
 
これまでの時代感覚で言えば、教師とか、人に指導する立場の仕事は明らかに向いていないです。なのに、そんな私がレイキティーチャーになるんかい!?と、自分にツッコミを入れたくなることもあります……。
 
 
ただ、この感覚も、そもそも「今までの指導者はこうだ」とか「こういう資質が必須だ」とかを自分で判断して、それに該当しなければ「向いていない」と自分でジャッシしているという事ですから、自分の思い込みを手放す良い機会ではありますけれど。
 
 
今は、自分は「ただ、在る」だけで、エゴが薄い分、いわゆる現実を動かしていくパワーは無くて、エゴ的には物足りないのかもしれませんが、それでも私はそれで満足しているというか……。
 
自己浄化が進んだ結果、自然とこういう心境になっていって、何の力みもなく、漂うというのか、そんな状況です。
 
 
 
これからの時代は、いろんなタイプの人が、それぞれの在り方で、ただ光っていれば、それでいいのかもしれませんね…。
 
 
肉体を持って、こういう意識で生きる事のバランス…の問題かもしれません。グランディングする事と、三次元をリアルとしてバリバリに生きるのは、同義ではないと思っています。そのニュアンスの違いを……この「信じる」という言葉に感じます。
 
 
 似ている様で違う…
現実的と、グランディング
 
 
それが「信じる」と「知っている」の違い、なのかもしれません。