「足るを知る」
という言葉があります。若い頃の私は、この言葉の意味を、「分相応であれ。自分の身の丈に合ったものを、有難く受けいれ、慎ましく生きよ……」と解釈していました。
もっと言えば、この言葉には「自分程度の人間は、多くを望まず、ちょっとの事で満足しろ」のような、自己卑下や、日本人特有のへり下りの美学のようなもの…すら、感じていました。
世界には飢えて餓死する子ども達がたくさんいるのだから、自分なんて、マシなんだ。だから、これで幸せだと思わなくちゃ、人としてダメなんだ…とか。
納得していないくせに、いろんな場面で、比較して我慢して、長く長く生きてきたと思います。
日本には、いただき物をしたら、お返しをする。という習慣があります。しょっちゅう人に物をあげる人っていますよね。「余ってしまうともったいないから」「喜んでくれると嬉しいから」
そして、ここからタイプが2つに分かれます。「あげて完結している人」と「無意識にお返し(気持ち)を返してもらおうとしている人」です。
「あげて完結している人」からもらうのと
「お返しするのが暗黙の了解の人」からもらうのとでは……
受けるエネルギーが全然違います。。。
もう、息をするように自然に、人に常にお裾分けする人もいますね。田舎なんかでは、自分の畑でとれた野菜を近所の玄関先に勝手に置いて行くのが当たり前で、家に帰ったら自分の家にも米やら、魚が置いてあった。みたいな話もありますよね。そこは、持ちつ持たれつの社会が成り立っているのだと思いますが、
「あげたら、お返しをするのが常識」と思っている人にとっては、お返しをしない人は「非常識」になります。自分もいただいたら当然お返しするし、お返しが無いという事は、感謝の気持ちを表していない…という判断になります。
やっぱり「〇〇したら、〇〇すべき」という概念は、自分が非常識だと思われたくない、劣っている人と思われたくない…という「恐れ」がベースにある行動です。
もちろん、100%恐れだけ…ではなく、嬉しさや感謝があってこそなんですが、それでもやっぱり、恐れが含まれているので、ちょっと重たいというか、気持ちの良いコミュニケーションにはならないんですね。
「あげて完結している人」が渡しても、「お返しするのが常識だ」と考えている人が受け取れば、そこでもエネルギーの捻じれが生じます。
やはりエネルギーというものは、放出されたものを、ただそのまま享受する……のが、放ち手も、受け手も、気持ち良いのではないか、と思います。
私は誰かに贈り物をする事は、実はほとんどありません。あげないようにしている訳でもないし、あげたくない訳でもないのですが、日常生活では「もらう一方」なのです(笑)
でも実は、昔は…なんだか心苦しくて、お返しをしたりしていました。その時はやはり「お返ししないとダメなんじゃないかな。もらいっぱなしでは申し訳ないな」と思っていました。せっかく良かれと思ってくださったものなのに、100%の喜びで受け取れていないのが伝わりますでしょうか……。もらった途端に既に「お返し」の心配をしているのです。「感謝や喜びを形にして」というよりは「お返しすることで申し訳なさをトントンにしよう」という考えからの行動を選んでいました。もちろん、無意識に、です。
これが、ここ数年の浄化で、自己肯定感が回復してきまして、この考えが全く無くなりました。
「いただく」
↓
「わーい(´▽`*)」
↓
「ありがとうございます♡♡♡(喜びを言葉にして伝える)」
↓
終わり
感謝して受け取り、お礼を言った時点で「終わり」…です(笑)
お相手も好意からくださっていますし、それを100%有難く受け取れば、「わーい!ありがとう!」で完結することだったな(笑)と、今は素直に思います。
「物質的なモノ」に固執すれば、「モノをもらったら、モノを返す」のやり取りになるのかもしれませんが、「気持ち…というエネルギーのやりとり」と考えれば、「相手に喜んでもらいたいエネルギー」と「喜んで受け取ったエネルギー」の循環ができており、エネルギー的には、WIN-WINの関係で完結しているのです。
もちろん、相手によっては「あげてばかりで、ちっともお返しが来ない」と思う方もいらっしゃるかもしれません。が、それは私には関係ありません。そこで悶々としたり、釈然としないのであれば、それはその方にとっての「課題」であるわけです。
「これ、あげる」
「ありがとう!」
この単純で、素直なエネルギーは、とても軽いです。私は、こんなエネルギーが好きです。そこに、ウソや、謙遜や、誤魔化しや、見栄や、期待が無いからです。100%の本心が言葉や行動になったものは、とても気持ちが良いです。
良かれと思って本音が言えないとか、相手の気持ちを考えて意見を変えるとか、一見大人の対応のように見えるかもしれませんが、そのエネルギーは歪んでいます。そして、それはやっぱり「自己肯定感の低さ」から来ていると思います。
「常識」というものは、社会でみんなが心地よく過ごす為の、暗黙のルールとして、幼いころに、親から、先生から、社会から、言われてきました。子どもの素直な反応は、時としてこの「常識」の名の元に否定されました。
そうやって、「素直に思った事を言ったら、否定された」経験を沢山してきて、「常識的に生きる事」を優先してきました。
周りから注意されない年齢になる頃には、すっかりその概念は自分の中に浸透しており、今度は「自分が自分に注意し、自分が自分を否定して生きる」そんな大人が世の中には沢山います。
素晴らしい自分になってからしか、自分の事を認めないでいると、幸せを感知するハードルがめっちゃ高くなります。自分を認める為の条件がとんでもなく沢山あるのです。そうなると、いつもいつも自分を許せませんから、心がいつもキュっと固くなっています。
デコボコで、
あれもこれも出来なくても、
ただの、ありのままの、この私で、
ただの、私の、このままで
ただ、存在しているだけで、
すでに、素晴らしいのだ
そう思っていたら、幸せのハードルがめちゃめちゃ低くなります。もう、地面と同じレベルなので、スイスイ歩けます。ハードル、無いやん(笑)!!そうなると、風が吹いただけで、花が揺れただけで、空が青いだけで、それだけで「ああ、幸せだな」と感じるのです。
「私は幸せです」と言うと、「へぇ…いいですね」と言われます。「はい(笑)」答えますが、幸せって「ただ存在していること」ですから、それを感じられる自分であるだけです。それは、昔から自分を取り巻く世界はちっとも変化していないのに、自分が「その幸せはいつもあった」と気づくだけの事です。これこそが、「足るを知る」という意味なのではないか…と、今は感じます。別に仕事で素晴らしい成果を上げたわけでも、大金持ちになったわけでもないけれど、ただ、幸せを受け取れる自分になった、というだけのことです。
しかし、その「だけ」がとっても大きな事で。
人はそれを知る為に、人生を送っているのではないかな…とすら思います。
あなたは、何も出来なくても
ただ、あなたのままでいるだけで
それだけで、価値がある
そうしたら、もう目の前にハードルなんて、無くなる。あなたが幸せになる為に越えるべき、そそり立つ壁のような高いハードルだと思っていたものは、実は地面にめり込んでいた小さな、小さな小石だったりするのです。
インナーチャイルドの傷と向き合う事で、小石が取り除かれて、地面はフラットになる。そうして、風を受けて、道端の小さな花に気づき、小鳥のさえずりに気づき、スキップしながら歩く。
幸せにハードルなんて
ないんですよ…😊