人生に「生き甲斐を見いだせない」
仕事に「やり甲斐がない」‥‥など。
甲斐…とは、
「努力した効果や、期待できるだけの値うちという意味の語」
だそうです。
なので「〇〇の甲斐が無い」とは、自分の仕事や、自分の人生に対して「期待できるだけの価値が無い」と思っている状態なわけです……。厳しいですね。
人生や、仕事に、生きがいや、やりがいを感じたい心情は、仕事や人生そのものに対して「価値を見出せなければ、自分は存在する意味が無い」と、自分が自分に対して判断している…ということです。
特に「やり甲斐」を感じないで生きていたり、仕事をしていたりすると、
「こんな仕事をしていて、意味があるのだろうか」
「自分はこんな人生を送っていて、人としての価値があるのだろうか」
という思考回路に陥いります。
「その思考回路…本当に必要?」と思うわけです。自分にも、長年生きてきた価値観の残り香のようなものがありますから、一瞬思う時もあるのです。「自分…こんなことしていて、いいのかな」と。けれど、なぜそういう思考回路になるのかな?と考えると、やっぱり「〇〇甲斐が無い」の発想が、そうさせるのです。
甲斐が無くても、何の問題もないのに。
これでいいのだろうか……と一瞬思ったところで、「あれ…?なんでこれでいいのだろうか…なんて、思うのかな?」と自問自答が始まります。すると、「いや……何も問題なんてなかった」という結論に、やっぱりなるのです。
そもそも「ただ生きている事に価値がある」わけですから、極論…何もしなくても、自分の価値は一ミリも減る事はないのです。
世間体を気にして、やりたくもない努力を続けたり、外側に自分の価値を見出すものを探しに出かけたりするのは、「自分は何かが足りない存在だ」……の信念が、根深くあるわけです。
目標を持つことや、努力し続ける事そのものに価値があるわけではありません。
ただ、純粋にやりたい事をやる。
ただ、純粋に思う通りに生きる。
…それだけなんですよね。
その結果が、その人にとっては努力し続ける事ならば、それでいいのです。それは「不足感」から発生したやる気、ではないので、自分の「ただ、やりたい気持ち」をエネルギーにしているので、いつまでも楽にスピンを回す事ができます。
自分が、この世界の中での「何者かになる必要」が無いと知ってからは、とても楽になりました。だから、今の自分とは違う、立派な存在(?)になるべく、日々努力を重ねなくてもいいし、自分の立場や、自分の仕事や、自分の役割は、今世の自分を彩るパーツの一つでしかなく、それらは流動的であって、そのパーツの一つによって、自分の存在が決まるのでは、全くない……と感じている為、あまり自分の社会的な立場や役割に対して、重く考えていない…のです。重く……というか、そもそも「考え」そのものがありません。
そうなってみて感じるのは、「自分が自分に対して、問題を感じていなければ、問題は存在しようが無い」という現実です。
私は、世の中のあらゆる人が、私の人生に対して何か思う所があっても、それぞれの感想を持たれても、自分自身は、全く影響を受けることがないのですが、それは、自分が自分に対して「なんでもいい」と思っているからなんだな……と思います。
甲斐……を感じたい正体は「エゴ」で、エゴはいつも欠乏感を抱えており、不安なので、自分の価値を「やりがい」や「生きがい」の中で感じて安心したいのです。そして、それは不安から発しているのですから、それらを思う気持ちには終わりがありません。
やりがい、生きがい……。一見とても素晴らしさを感じさせる言葉なんですけどね。これらを求めて続けて生きていくのは、しんどいだろうな…と思います。
甲斐が無くてもいいじゃないか……
外側から評価されることに価値を見出さなくてもいいじゃないか……
自分に対して「不足している」という概念が無ければ、「甲斐」を求める必要もなくなる。本当に、そもそも「満ちている」のだから。
やりたい事があれば、純粋にそれをやり……
やりたい事が無ければ、ただ、自然に任せて漂う……
そんな、シンプルで
そんな、軽い
そういう人がこれからは増えていく氣がしています。
そうやって集合意識が変わっていくんだな……と
思ったりします。