自己受容についての内観

 

 

 

今年の8月は、体調的にヤラレています……。

あ、でも去年の夏も、口内に原因不明のびらんができたり、帯状疱疹になったりしていました……。8月はそもそも暑いし、クーラーの冷気に当たったりして体調管理が難しいですし、ライオンズゲートに関わらず調子を崩しやすいですよね。

 

ぎっくり腰も少し良くなってきましたが、まだ時間がかかりそうです。しかし、一番苦しいのは鼻づまりで、これによって熟睡ができない、呼吸がうまくできない、そして疲労が蓄積してしまいます。

 

もう仕方ないですし、全て受け入れて、そのまま過ごしているのですが、昨日の夜中に…元氣な時の自分が常に思っている言葉を己に向けて言ってみました。

 

「身体は絶対に間違えない、だから理由があってこうなっている」

 

でも原因がわかりません。(風邪ではないし)悶々としながら(苦しくて眠れず夜中3時を過ぎてしまったので😨💦)

 

「この鼻づまりの原因をわかるように教えて下さい」と心の中で唱えました。

 

しばらくして、なんとなくスマホで「鼻づまりのスピリチュアル的な意味」について調べてみたのですが、なんと鼻水、鼻詰まりは「エネルギー的な浄化」だそうなんですよ。浄化が終わったら、良くなるっぽいんです。(だからどんどん出したほうがよい。)

 

体調不良の後って大きく流れが変わったりするのはもう経験済みで、そうか、今回もそういう事なんだな、ジャンプの前にかがんでいるんだな、と理解しました。

 

しかし「浄化」というワードが気になりました。日々、浄化をしている私ですが、ここまで身体にくるということは、まだまだ出せる膿があるということです。(潜在意識のゴミは浮上しないと氣づけません)

 

そして、何を浄化したいのか。

 

なんとなく「自己受容」だと感じたので(受容してるけど??と思っているけど、潜在意識の中にはまだまだあるってことですね)

 

「今、私は、何に対して、心地悪さを感じているのだろう」と自問自答が始まりました(重ねて言いますが、これ夜中の3時(-_-;))

 

そうしたら、「主婦業」というものについての考察が始まりました。今回の浄化はこの議題だったようです。

 

みなさん、「主婦」ってどんな事をしていると思いますか?「主婦」の日ごろやっている仕事って、実はめちゃめちゃいっぱいあります。

 

大きく分けて

「食事」

「掃除」

「洗濯」

「子育て」

「お財布管理」

があると思うのですが(他にもいっぱい、いっぱいあるよ)この食事を一つ取ってみても


メニュー考える

買い物に行く

作る

食べる

片付け

 

などなどありますが、栄養、家族の好き嫌い、経済的なやりくり、手際、他の用事との兼ね合いで時間の制約など、無意識に考えることが沢山あります。

 

これが×3回、365日行われるわけですよ。しかも、「あ、もう麦茶がなくなる、沸かさなければ」など、家族が滞りなく生活できるように、実際はもっと多く、常に、常に考えているのです。

 

 

主婦に向いている人……って、どんな人かな?と考えました。

 

私が思うのは、主婦がやるこれら沢山の仕事に対して、

「好き」

「得意」

「苦にならない」

「相手の喜びが御馳走という価値観」

 

……を持てる人だと思うのです。

 

しかし料理が得意なだけで、掃除が苦手な人だっています。掃除はできても、金銭管理は全くダメ、と言う人もいます。

 

主婦……って、仕事の種類がたくさんあり、その全てができて当たり前と思われがちですが、こんなにいろんな事をこなすって……どんだけのスキルを求められるんだろう?ってあらためて感じたのです‥

 

しかも、できて当たり前だし、それに対してお給料をもらえるわけでもない。  

 

この主婦の仕事の種類なのですが、よくよく考えたら、実は私はこの全ての項目が、

 

好きではなかったり

できればやりたくなかったり

一人暮らしの時は適当にマイペースでやっていたり 

苦手だったり

得意ではなかったり  

 

だったのです😱 

それに、氣づいたのです。。。

 

そりゃ疲れるよね、と思いました。そもそも何が私を疲れさせたのかというと

 

【出来て当たり前】だと、自分が自分に課しており、それをストレスに感じたり、楽しめない自分が、どこか欠陥人間のように感じており、自分によって疲れさせられていたのだとわかったのです。

 

向いていないのに、無理して仕事してたんだ、と。例えばずっと引き籠もりだったのに、よりによって営業職につかねばならなくなった様なものです。向いていない営業をしてストレスな上に、みんなやっているのだから…と更に業績アップを求められるような。

 

そこで、タイトルにも書いた

 

「自己受容」

 

【主婦】という役割や仕事に自分を嵌め込むのではなく、【私という個性的な存在】がたまたま適性があまりない主婦業をやっているだけ、と割り切れば良かったんだ、と。

 

これは大きいですよ。

 

自分が、自分を、「それでいいよ」「上手くできなくていいよ」「楽しめなくても仕方ないよ」……だって、私がやっているんだから!と思えたのです。

 

主婦業って、こんな多業種なのに、その全てををちゃんとできて、しかも楽しんでいる人の方が特殊です。どんな仕事よりも難しく、終わりもなく、それでいて主婦の存在か、家族に対して物凄い影響を与えるわけです。それを喜びと思えるか、荷が重いと感じるか。

 

 

そんな凄い仕事なんだから、向いていない自分が変なわけじゃなかったし、むしろ、この個人主義でマイペースな自分が今までよくやっていたもんだと思いました。

 

それも、自分の母が、理想的な良妻賢母で、愚痴も言わず、いつも笑って、いつも人の為に奔走しているような人だったからかも。

 

昭和までは、多かったかもしれません。戦前などはそもそも「自分とは?」などと考えるよりもまず、嫁に行って困らないようにあらゆる家事仕事を鍛えられ、疑問にも思わず家庭に尽くしていた……それを当たり前と思うなんて、過酷な時代だなぁと思います。

 

徐々に時代とともに緩和されていくとはいえ、まだまだ根強く「主婦業はできて当たり前」「慣れれば誰でも出来る」「お母さんは一家の太陽」と思い込んでいる時代に育てられた私の世代の人は、奥さんや、自分自身に対しても、昔の価値観を無意識に強いてしまう。

 

でも、そうじゃない。

 

自分の本質を生き、自分にとっての心地良さを知り、純度100%の自分で生きる人は、自分が唯一無二の個性的な存在だと知っている。だから、役割という型に嵌められると窮屈に感じる。

 

その仕事が向いていないなら、楽しめなくてもいいじゃない。そうだとしても自分の価値は1ミリも減らない。

 

苦手なら得意な人に頼めばいいじゃない。こんな沢山の役割が全部できる人なんていない。

 

例えば、

 

お料理が好きな人がお料理作って

盛りつけセンスのある人が取り分けて

場を盛り上げたり、子供の話を聞くのが大好きな人が沢山子供と接し

片付けが得意な人が場を整え

そうやって皆で子育てしたら……

お母さんはひたすら笑顔でいられるんじゃない?

 

お母さんは、ただ、幸せで満たされて笑っている、それだけで、そのお母さんにしかできない事を成し得ている。

 

 

「主婦とはこうあるもの」

「お母さんとはこうあるべき」

 

そんなものは、そもそも無かったんだと。

 

 

古い時代の集合意識なんでしょうね。もう必要ないし、自分で自分の在り方は選べる。

 

そんな考察が深まった昨日の深夜でした。。。