空(くう)は、いまここに

 

毎日、YouTubeの動画を見ながら筋トレをするようになって、もう一か月以上になりました。肉体の調子は、今までの人生の中で味わった事の無いくらい好調かもしれません。

 

筋トレしている人で、暗い顔をした人ってあまり居ないイメージです。身体が強くなると、気持ちも強くなるのでは……と感じます。

 

それと同じくらいの頃から、掃除機をかけるのをやめて、毎朝家じゅうを雑巾がけするようにしました。これも、あきらかに掃除機だけの時より、床から立ち上る「氣」のようなものが変わりますし、床がキュッとなると足裏も喜びます。

 

筋トレも、雑巾がけも、やりだすと心地よさがわかるので、ちょっと今日は忙しくて時間が……💦と思ったとしても、やっぱりやって氣持ち良さを感じたいので、身体が動きます。そうすると、雑巾がけなんてほんの20分で終わるんです。ああ、やっぱりやって良かった、と。。。そうしていくうちに習慣となりました。

 

また、以前は水分と言えば「緑茶」「紅茶」「ハーブティー」などが主でしたが、最近は「水」です。もちろん、他のものも飲むのですが、90%は水なんじゃないかな…。

 

で、毎日いろいろと忙しかったりすると思うのですが、バタバタしている時に「水が飲みたい」って思ったとするじゃないですか。。

 

例えば、お米を研いでいる最中に「喉乾いた…水飲みたい」って。そうすると、以前は「キリが悪いのでお米を研ぎ終えてから飲もう」となっていました。

 

でも、そう思っていたら、次のやる事が出てきたりして、そうしているうちに「水が飲みたかったことを忘れてしまう」とう事象が起きたりしませんか?

 

私は、最近は意識して、とにかく何をしている最中でも「水飲みたい」と身体の声が聞こえたら「即座に水を飲む」ことにしているのです。

 

これは、何故かというと、せっかくの身体の声を蔑ろにしたくないからなのです。身体の声って、頭の声に消されてしまいがちだと思ったのです。(思考の都合で後回しにされる、というか)

 

自分としては、「思考」「感情」「肉体」は、やはり仲良しである事が心地よいと思っていて、「思考の声」は誰しも常に頭の中で響いているので聞き取りやすいじゃないですか?

 

けど、「肉体の声」は思考の都合で我慢を強いられる事が多いし「感情の声」も、これも思考によって押さえつけられる事が多い。

 

その状況に対して、最近は「それは、あまり、心地よくない」と感じているので、わかりやすい最初の一歩と言う事で、「どんな最中でも、水が飲みたいときには、飲む」を心がけています。

 

そうしていくうちに、ちょっと肉体と仲良しになってきた、というか。。。

 

先日は、娘を駅まで送るのに車の運転をしていたのですが、意識としては「電車に間に合うこと」が最優先事項であって、集中した気持ちで運転していたのです。で、右折する時に、それまで視界に入っていなかったスピードで自転車が通過していきました。すぐにわかってブレーキを踏んだので、危ない状況では全く無かったのですが、

 

流石に、ちょっとドキドキした……(;'∀')💦

 

のです。でも、次の瞬間には思考はもう「駅に向かう」事に全集中していましたので、平然と通常運転に戻りました。

 

ですが、心臓がかなり大きく脈打ったままだったのです……٩( ''ω'' )و

 

これは、自転車に「ドキッ!!」とした事実があって、いくら思考が次の瞬間に「もう安全だ、さあ運転、運転!」と切り替えたとしても、肉体としては緊張によって「鼓動が早まった」わけですから、急に正常の脈み戻るという事にはならないんだ、と。

 

戻る時は、徐々に、ゆっくり、戻っていくんだ。。。肉体の安全の為に。。

 

それが、自分の肉体で感じられた事が、めちゃめちゃ嬉しくてですね。「ああ、直ぐに水を飲むようにして良かったーー」と思ったのでした。

 

身体って、宿主を健全に生かすために、全力で生命活動を行っているんだ、って。思考がどんなに無茶ぶりをしようが、感情がどんなに荒れようが、とにかく、生きる為の最善の活動を、常に、常に、してくれているんだ………って、あらためて感じたのです。

 

身体、、、ありがとう。

 

「思考・感情・肉体」全てが大切で、全てが自分。それぞれが、思い合っているのが理想の状態ですよね。

 

 

でも、ほとんどの人が、これら3つのバランスは同じではないはず。

 

私の場合は、無意識でいれば「思考優位」です。だから「肉体の要求を聞いてあげる」とか、「湧いてきた感情に抗わない」というのは、意識しないと蔑ろにされがちなのです。

 

それが、最近は「思考」がとっても大人しいですね(笑)脳内で言葉が展開されない時間もかなり長いし、一日の内に何度か、完全なる「無……」になる時があります。

 

そういう時は、

視力は風景を捉えているけど、凝視はしていない。

自然の音がよりクリアに聞こえてくるけれど、聞いているわけではない。

風が頬にあたる感触をただ感じる……

思考が無く、

ただ「空(くう)」になり

「私」は無く、

存在が風景に溶けている

 

ような感覚になります。

 

「今」だけがある、これが「いまここ」だなとわかる

 

この感覚を知ると、

本当に人って、何もしなくてもいいんだなーって思います。

ただ、生きているだけで、それだけでいいんだな、って思います。