純粋な「氣」だけを

 

 

 

人と、人との間に感じる「空氣」のようなもの……ってありますよね。

 

「自分」がいて、目の前に「相手」がいる。その相手が変われば、間にある「氣」も変わりますね。それぞれの関係性とか、相性とかによって、まるで化学反応のように「氣」も変化します。

 

これは、敏感な人もそうでない人もいて、度合いはそれぞれだと思いますが、何となくみなさん感じられるのではないでしょうか。

 

自分にとって心地が良いと感じる「氣」は、おそらく相手にとっても心地よく、反対に「なんか嫌だな」と自分が感じれば、エネルギーレベルで相手も何か不快に感じているものです。それは言葉で説明したり、頭で理解する類のものではなく、「感じるもの」ですよね。

 

相手との間にできる「氣」は多かれ少なかれ「感じる」ものなのですが、たいていの場合は自分の内側にある恐れや不安、思い込み、期待などが相手を鏡として映し出されるわけなので(無意識に)純粋に相手との相性による「氣」の他に、そういった不純物もいっぱい混ざった「氣」を感じているのです。

 

 

余計なものを投影してしまうと、純粋な「氣」だけを感じる事ができませんから、ちょっと勿体ないですよね……。やっぱり自分の内側のクリアリングって大事です。

 

 

この「氣」は、自分の中の恐れや不安が無くなった時に、初めて純粋な「氣」だけを感じることができるのではないか?と思うようになりました。内面の投影が無くなった後に残っている「氣」。

 

 

自分軸が確立するほど、一歩引いて俯瞰した状態で物事と対峙できるようになりますね。そうなると、その場の言葉や態度など三次元的な要素はさておき、ただ自分の中心にあるものと、その場の「氣」だけを純粋に捉えることができるようになります。

 

 

そうして、そのように生きていると、もう、出来事とか、立場とか、会話の内容とかをすっ飛ばしていて……人間として考えればこれが良い、こうした方が良い、これはオカシイとか、そういうのがもうどうでも良くなっていると、ただ胸の中心が心地よさを感じていたとしたら、その「氣」だけで十分だな、と思うのです。

 

 

三次元的な言葉や態度が本質を現わしているかというとそうではないので、そこに囚われなくて良いと思います。ただ、自分の胸中心の喜びのムズムズがどう感じているか?もう、それだけでいいと思ってしまいます。

 

ただ、純粋に「氣」だけを感じ合うような状態になれたら。

 

テレパシーって、言葉の送受信じゃないと思うんです。言葉では伝わらない本質の部分を伝えあう事がテレパシーですよね。波動の送受信。

 

きっと、その割合が増えていくんじゃないかな……なんて、感じています。