そのままでいい。

 

 

数日前に味わった感覚のお話なのですが、自分の中では大きな変化と感じられることがあって、上手く伝えられるかわかりませんが、書いてみたいと思います。

 

この感覚に「( ゚д゚)ハッ……!!」となる前の数日間は、理由がとくにあったわけではないのですが、「なんとなくソワソワ…」「なんとなくモヤモヤ……」というちょっと心が落ち着いてない感じでした。

 

2016年頃から本格的に、意識がシフトしたのですが、最初の頃は外側に向いていた自分の目線(意識)を、内側へ向けるのにも苦労しました。慣れてくると、外側で起きる事や、自分の心がチクチク痛んだりする時、必ず自分の内面にそう感じさせる「種(たね)」というか原因になった記憶があるので、内観して氣づき、その記憶が浄化していく……というサイクルが回り出し、もう自然にそういう作業に入るようになりました。

 

そして、その作業によって内側のお掃除がある程度進むと、外側の世界でそうそう嫌な事が起きなくなるため、ただただ穏やかな日常を送っている……となるのです。ごくたまに、何か出来事が起きても、淡々と内観をして浄化してしまいます。

 

ここ数年の私は、だいたいが安心…だったり、穏やか…だったり、落ち着いていたりする心情がベースにあり、時々心が動くような出来事があった時でも、揺れる自分と、それを安心して眺めている自分が同居しているような状態です。

 

そして、最近はこの内観をして原因となるような記憶を探す……という作業すら、していない事に氣がつきました。つまり、「お掃除対象となる記憶を探す」とか「氣づきを得て浄化につなげる」という意識が無くなり、ただその体験を丸腰で体感する、味わっているだけの自分になっている事に氣がつきました。

 

お掃除をするのに、雑巾もホウキ🧹も必要なく、「ただ、眺めているだけ」でいつの間にか消えてしまう。という感じです。

 

ですが、数日前にしばらくの間、理由なくモヤモヤ……と所在無い氣持ちが続きました。「しばらく経ったら消えるのかな」と、漠然と思っていました。しかし、モヤモヤしたままでした。

 

そのうちに、意識がこのモヤモヤに対して「何とかしようとしている」のを感じました。

 

幸せな氣分だったり、安心していたり、穏やかだったりすれば、それをそのまま放置してただその感覚でいるのに、氣分の種類が「モヤモヤ」や「ソワソワ」といった所在無い感じだと、その場に居続けられず、離れようとしているのがわかったのです。

 

ああ、私は、この感情に対して心地よさを感じていないから、この感情から早く次の所へ行きたいと思っているんだな、と。

 

その時思いました。

 

なぜ、「楽しい」や「シアワセ」はそのままで良くて、「モヤモヤ」や「ソワソワ」はそのままでいることに悶々とするのだろう。それは、私が「モヤモヤ」や「ソワソワ」に対して、その感覚や感情をそのまま受け入れる事を拒んでいるからなのでは?と。

 

そのとき「( ゚д゚)ハッ……!!」が降りてきたのです。

 

「モヤモヤ」も「ソワソワ」も、ただ、味わっていいんだ。どこへも行かなくても、ここから逃げなくても、心地の良い感情へ行くための策を講じなくても、ただ、ソワソワしたままの自分を全面的に受け入れて、ただ、味わえばいいんだ……と。「私は今、モヤモヤした感覚を感じている。。。モヤモヤ、してもいいよ。そのままでいいよ。何も変わらなくていいよ。ここにいていいんだよ。」と。

 

その瞬間、私はものすごい安心感に包まれました。ああ、このままで何も変わる必要はないんだ、感じたら良くない感情など何もなく、ただ、感じる事を自分に赦せばいいんだ。

 

………つまり、私は、私自身からそれらの感覚や感情に対してNGを出されていたようなもので、そのことによって所在無い思いしていたのです。

 

誰も私を否定したわけではありません。私自身が私の感情に対して「その感情は心地よくないから、ここではない何処かへ行かないと」と無意識に促していたのでした。

 

けれど、どんな感覚・感情も、「そのままでいいよ」と私自身に赦してもらえたことで、私は最大の安心感を得られたのです。

 

どんな自分も、どんな感情もジャッジせず、そのままの自分を受け入れる。これはもう何年もやってきていることで、それにより私は今、本当にラクに生きていますが、その深さがもう一段増したような、意識のシフトだったんですね。。。

 

螺旋階段を昇るように、知らぬうちにシフトも深くなっていきます。

 

多くの人は、自分以外の誰かに認められたり、許してもらえなかったりすることに意識が向きがちですが、本当の安心感とは、「自分が自分にたいして全面的に赦されている」ところにあります。