私は自然に終わりたい

 

 

生きること

死ぬこと

 

 

生きるのは良くて

死ぬのは悪い

 

生きていれば安心で

死ぬのは不安

 

……なぜ、そう思うのでしょうか

 

それは、たぶん、

死んだらもう何もかもお終い、全てが無くなってしまうと、思い込んでいるからなのではないかと。

 

 

単純に、私は、不思議なのです。

 

高齢者の多くは、死への不安が大きいように感じます。それは、いよいよ本当に死が間近になってきて、現実味を帯びてきたから……とも言えますが、それだけではなくて、そもそも生きることへの執着が物凄く強いと感じます。

 

これは、その世代の生きてきた時代背景にあるのかもしれません。つまり、戦いや、病気で若くして死ぬ人が多かったから、死への恐怖、生への執着がより一層強くなるのではないか、と。

 

日本人の平均寿命は男女ともに80歳を超えていますが、その年齢になって、心身ともに健康でいる人の割合って、どのくらいなのでしょう。

 

 

年齢を重ねると、思考は深まり、体験が増え、人として円熟味が増します。私は、若い頃の自分よりも今の自分の方が断然、心地よいですし、年齢を重ねていくのって好きです。

 

けれど、身体の細胞は、年々老化しますから、肉体は衰えていきます。それはとても自然なことですよね。

 

日々、体が欲するものを適量食して、適度に身体を動かして筋力を鍛え、深く穏やかな呼吸を繰り返し、感情を観察し、熟考して、体験を味わい……

 

そのようにしていたら

 

心は穏やかに、内面は深みを増しながらも、身体の自然な衰えを、淡々とありのまま受け入れて 

 

自然にあらがわずに

死んでいくと思うのです

 

私は、そうありたい。

 

西洋医学の進歩は、多くの病を克服し、人々の命を救ってきたけれど、行き過ぎるとバランスは崩れる。

 

つまり、本来であれば高齢で死を迎えていたであろう人に対して、ただ請われるままに過度な医療行為を続けた結果、平均寿命が延びているだけ。決して健康で幸せなお年寄りか増えたのではない。

 

医者は、それが仕事だから、延命させるためにあらゆる医療行為をするでしょう。

 

本人の望みかもしれない。死への恐怖と、生への執着。あるいは、周りにいる者の、失う不安と、最大限にできることをして最後まで死へ抗うことが良いことだという思い込み。。。

 

本当にそうでしょうか。

 

生きている時間の長さが、その人の幸せでしょうか。早く死んだ人はかわいそうで不幸な人でしょうか。

 

 

私は、いつもいつも、今この瞬間の、ありのままの自分を、なんの条件も無く全面的に受け入れ、自分であることを喜び、人と比べることもなく、ただのこの自分を、他ならぬ私自身に認められているならば、安心立命の中にあり、寿命の長短に関わらず幸せだと思っています。

 

心の成長と、身体の終焉が、バランスよく淡々と進んでいく。

 

 

 

抗わず、ただ委ねて、その日を迎える。

 

 

私は、そんな終わり方をしたいと思っています。

 

 

 

 

 

遠隔靈氣はじめました

 

なんか、冷やし中華はじめました……みたいなタイトルですが💧

 

これまでは、対面の施術が好きだから……という理由でメニューには加えていなかった遠隔靈氣。

 

ただ、ゆくゆくは対面の施術のサポートとして、遠隔もメニューに加える考えはあり……記事を作って保存していました。

 

それが、先日ある方に遠隔を送らせていただいたのが始まりの合図で、、、その直後に怪我をされたお客様が不自由な身体をおして施術を受けに来られ(何回も療術所に通うのは大変だけど完治に時間がかかる状態)……「あ、これは、遠隔をやっていく流れなんだ…」と感じたのです。連続する出来事に背中を押されている。。。

 

その日に、保存していた遠隔の記事をアップしました。

 

 

決意して直ぐに、7日間連続遠隔靈氣のご依頼もあり、他にも遠隔をする機会が立て続けにやってきました。

 

対面の靈氣も、モニターさんの様子や、ご感想のおかげで、効果を実感できたように、遠隔の靈氣も受けてくださった方のご感想によって、「やっぱりちゃんと靈氣が届いている、体感も、効果も対面と同じなんだ……」と確信できました。

 

やはり、何でもそうですが、フィードバックをいただくことは物凄く力になりますから、ここでも私は、お客様や友人の言葉から一歩踏み出す勇氣を得て、また新しい自分に出会いに行くような、そんな流れになりました。…🌿

 

当初設定していた時間配分や、私自身のスケジュール的なことなど、実際にやってみて、わかってきたこともあり、内容を変えます…m(_ _)m💧

 

とりあえずこれで開始します。

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遠隔靈氣

 

怪我や病氣などで集中して靈氣を受けたいけれど毎日は通えない…、発熱で外出できない……、そんなお客様に対して、遠隔靈氣でサポートします。直傳靈氣の遠隔は、対面の靈氣と同じく、病腺に対して手をあてます。

 

当面の間は、Slothの森療術所で直傳靈氣を受けたことのある方、私と個人的に面識のある方に限らせていただきます。

 

 

🌟遠隔サポート30分🌟 

1回のみ……3,000円

3日連続……7,000円

7日連続……15,000円

 

・お支払いをもってご予約確定となります(振込先は個別にお伝えします)

・終了したら捉えた病腺についてLINEで連絡します。

 

 

 

どうぞよろしくお願いします。

 

 

 

 

 

 

人は鏡

 

 

「人は鏡」って聞いた事ありますか?

 

よく、昔の人が「人の振り見て我が振り直せ」なんて言いますよね。それは、誰かの行動でそれは良くないワ~と感じたとしたら、相手を批判するのではなく、自分はそんな行いをしないように氣をつけよう、という感じでしょうか。

 

小学校で先生から言われる「自分がされて嫌な事は、人にもしない!!」という教えのような雰囲氣を感じます。

 

でも、これは昔の地球の社会性が色濃く反映されていることわざに感じます。つまり、「自分の感情へのコントロール」が生じるわけです。心からそう思っているわけでもないのに、良い人間であるために自分を矯正するような……。

 

 

私がここでお話する「人は鏡」というのは、これとは全く違う使い方です。

 

 

みなさん、眼がありますから、自分の周りにいる他人の事はよく見えますよね。しかし、自分の姿を見るには鏡を見るしかありません。

 

しかも、鏡は左右逆に映しますから、他人が自分の姿を見るのと同じように客観的に見ることは一生できません。

 

つまり、人は「自分の姿を目視することは不可能」なのですね。

 

では、どうやって見るのか???

 

それは、「他人」を鏡として、自分の姿を映すのです。これは、姿かたちの外見的な事を言っているのではなく、内面的な事です。

 

誰かの話す内容、誰かの態度、誰かの起こす行動、そういう他人がやってくれるその姿を見て、自分の感情が動いた時……。相手の言動の中に、自分が「反応している」ことになりますね。それは、万人にとって反応するかというと、そうではなくて、自分がその言動に対して反応するタネを内面の世界に有しているから、感情が動きます。

 

内側の世界というのは、目視することはできないので、人を鏡として自分を知るのです。ああ、私は、こんなことを嬉しく感じるんだな……。ああ、なんて嫌な態度なんだろう……。どうしてこの人のこの言葉にイライラするんだろう……。

 

他人は、自分の内面を知るキッカケになってくれます。そうやって、自分も誰かの鏡になっていて、誰かの心の内側に氣づくキッカケを与える事に協力したりしています。

 

自分では見えない自分の内面世界を、他人が見せてくれる。

 

だからですね……

 

私は、基本的に独りで居るのが好きです。家族が居ても、一人になる時間がないとダメなタイプなんですが……、夏休みで主人と子供らが帰省して6日間留守にしていたのです。最初はめちゃめちゃ嬉しくて(笑)やっほー家事やらなくていいー♪部屋も散らからない~💛静か~(∩´∀`)∩とノンビリやっていました。

 

独りが心地よい私なので、寂しいとはほぼ無いんですが、内面が動かないんです……。ちょっと日本語がオカシイかな。感情が動くような事があまりない、というのかな。

 

他人と生活していると、100%マイペースの生きる事は難しいですね。3度の食事、買い物、送り迎え、掃除洗濯、べつにやりたいわけではないけど、生活していく中で必要な事があります。

 

100%マイペースに生きていたら、私はひたすらボーーーーッとして、ひたすらノンビリして、ひたすら犬猫とノンビリして、マンガやアニメみています。実際にそのように6日間やっていました。(テルミーや靈氣のお仕事以外は)

 

私のように、元々、外に出かけたい欲求もなく、人に会いに行きたいわけでも無い人は、好きな事やっていいよと言われたら、ひたすら独りでボンヤリして過ごすのです。そうすると、、、感情が動くような場面がほぼありません。

 

ひたすら静かな空間にノンビリ漂っていた6日間でした……。独りで居るので、感情が動かなかったり、熟考するような出来事が起きなかったりします。ひたすら平和ではありますが、それは、宇宙に帰ってからずっとそういう意識状態になるのかもしれません。

 

せっかく地球にいるのなら、ほんの少しでも他人と関わって感情を動かし、他人という鏡を使って自分の内面を知っていく方が有意義ですね。それが、地球でできる魂の成長ですから。

 

私のように、敢えて人に会いに行こうとしないような超インドア派の人は、家族と暮らしている状態の方が、つまり、鏡となって私の内面を映してくれる存在が身近にいる方が、良いのかもしれないです。

 

そんな鏡たちが帰ってきます。。。

また忙しい日々が始まります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

魂の助け合い

 

魂の成長について、考えていることがあります。

 

地球に生きている間は、みんな「肉体」を持っています。そして、日々いろんな出来事があって、そのことによって「心」が揺れたり、いろいろ「考え」たりして生活していますよね。

 

「魂」とは……肉体が無くなった後も永遠に在り続けるもので、地球の人生を終えて肉体が消えたからといって、我々の存在が消えるわけではないです。地球では、肉体が消える事=「死」をものすごく大きく捉えている人が多いと思いますが、もちろん近しい人の死は大きな出来事になりますが、死=おしまい……ではありません。

 

地球で生きている人全てに共通して、魂の本質的な目的というものがあります。それは「成長し続ける」ということです。成長というと、偉い人にならなければいけないのか?と、ちょっと緊張してしまうかもしれませんが、そうではなくて、肉体を持って小さな体験を重ねていくことにより、日々何かを感じることであったり、そのことによって熟考していく事が、その人の叡智となって成長に繋がっています。

 

ヒトは、いろんな体験をして、感情がたくさん揺れ動きます。動揺して、怒りが沸いたり、悲しい氣持ちになったりします。ここで、心だけ使って感情が揺れに揺れただけで終わり……となる場合もあるかもしれませんが、一歩進んで「それは何故だろう?」と、次に思考を使う事で自分の内面に深く落とし込むような内観が起きます。

 

そして、浄化が起きたり、腑に落ちる真理のようなものを得られたりする。

 

……感情が揺れ動くというのは、ポジティブであってもネガティブであっても、自分が潜在意識に所有している何らかの概念や記憶が、現実世界の出来事によって反応した結果なのですが、それが重たいエネルギーで心地よさを感じないのであれば、手放す事も可能です。そして、この手放す時というのは感情だけではなくて「思考」も使っているのですね。熟考するからこそ内観が深まるので。

 

「思考・感情・肉体」があって、わりと私達の脳内は「思考の声」が大きく、感情や肉体の声は二の次にされがちなので、思考過多になることに対してNGと言われたり、思考はワルモノ?のように感じられる事もあります。これはバランスの問題で、思考が大きすぎる人は、思考が大人しくなることによって魂を感じる事ができる……という側面はあります。しかし、思考自体が不要ということではありません。

 

「思考・感情・肉体」は、どれも魂の成長には無くてはならないもので、この3つのバランスで進んで行くのが理想です。どれか一つが欠けてもうまく行きません。

 

それで、ここからは、テーマとしては難しいな……と思っていますが、最近考えている事を書きたいと思います。。。

 

認知症」についての考察になります。。。。

 

認知症の方でも、当然ながら肉体を持っているので生命を維持されていますよね。そして、感情もあります。その感情も、認知症になる前となった後で、感情の複雑さや揺れ動きに、どのくらいの変化があるのかわかりませんが、感情そのものを失ったわけではありません。

 

けれど「思考」についてはどうなんだろう?と思ったのです。

 

思考……というか、私がここで言いたいのは「熟考すること」なのですが、、、つまり、日常での様々な出来事によって、何等かの感情がわき、そのことについて熟考することによって腑に落ち、これまでより視界が広がるような経験を重ねていくことが、魂の成長になってくると仮定すると、「熟考」の部分が薄れていくと、その人の地球での個としての魂の成長は、もう進まないのではないか?と思ったのです。

 

私は、ヒトの生きる目的は「魂の成長」であると思っているので、その大命題である魂の成長が望めない状態で生命を存続させていく意味って、何なんだろう?と考えてしまったわけです。

 

 

しばらくの間、この問いが内観のテーマになっていたのですが、「ああ、そうか…」の感覚が降りてきました。

 

認知症の方は、その周りにいる「身近な人達の魂の成長を促す」為に生きている……と。

 

深く腑に落ちたのです。

 

実は、本人としての課題は終わっていたり、本人とハイヤーセルフが同意していれば、今世は終了して次へ……でもいいのかもしれません。

 

それでも生きているとすれば、それは、身近にいる人が自分の内面に目を向ける事や、手放せる何かに氣づくことを助けているのかもしれない、と。

 

身近な人の魂の成長を促す………。

 

これは、認知症に限らず、重度の障害を持っている方のご家族も…そうなのかも。病の本人は、周りの人の心を揺さぶり、熟考を促し、魂の成長を加速させていますよね。

 

心が揺さぶられないと、意識を内面に向けられないでしょう?関わっている人達って、本当に大変だと思うのです。

 

でも………。そこで努力とか、忍耐とか、我慢とかを自分に課して、もっともっと、もっと!頑張らなければ!!となるとしたら……そして、もし頑張れなかったり、優しくなれない自分を責めたりしたら……。。。

 

三次元的には、我が身を犠牲にして、疲れた体に鞭打って頑張ろうとする、そんな人は素晴らしいし、心の優しい人です。

 

しかし、地球的な優しさ、人としての在り方、社会の中で良しとされる生き方は、魂の視点から見れば逆方向だったりします。「自分に対して優しくない」わけですから……。

 

自分を大切にしないで生きてきた世代の方ほど、ここの方向転換は難しいと思います。だからですね………「もう、もう、、、無理だ」と、我慢の限界を超えるような出来事が次から次へと起きるんじゃないかな…と思うわけです。これは宇宙からの愛ですが、しんど過ぎて、まったくそんな風には受け取れないと思います。

 

本人がわかった時に、、終わると思います。。。

 

今、苦しい人

今、辛い人

今、大変な目にあっている人

 

みんな、理由があってそうなっていますが、その人が悪いとかではなくて、「氣づき」が起きる為にそういう現実になっています。

 

目線が外側にあるか、内側を向いているか

 

たったそれだけの事なんですが、天と地ほどの差です。

 

自分が作った世界だと、心の底から思えるようになることが

一つの到達点でもあります。

 

 

そのままでいい。

 

 

数日前に味わった感覚のお話なのですが、自分の中では大きな変化と感じられることがあって、上手く伝えられるかわかりませんが、書いてみたいと思います。

 

この感覚に「( ゚д゚)ハッ……!!」となる前の数日間は、理由がとくにあったわけではないのですが、「なんとなくソワソワ…」「なんとなくモヤモヤ……」というちょっと心が落ち着いてない感じでした。

 

2016年頃から本格的に、意識がシフトしたのですが、最初の頃は外側に向いていた自分の目線(意識)を、内側へ向けるのにも苦労しました。慣れてくると、外側で起きる事や、自分の心がチクチク痛んだりする時、必ず自分の内面にそう感じさせる「種(たね)」というか原因になった記憶があるので、内観して氣づき、その記憶が浄化していく……というサイクルが回り出し、もう自然にそういう作業に入るようになりました。

 

そして、その作業によって内側のお掃除がある程度進むと、外側の世界でそうそう嫌な事が起きなくなるため、ただただ穏やかな日常を送っている……となるのです。ごくたまに、何か出来事が起きても、淡々と内観をして浄化してしまいます。

 

ここ数年の私は、だいたいが安心…だったり、穏やか…だったり、落ち着いていたりする心情がベースにあり、時々心が動くような出来事があった時でも、揺れる自分と、それを安心して眺めている自分が同居しているような状態です。

 

そして、最近はこの内観をして原因となるような記憶を探す……という作業すら、していない事に氣がつきました。つまり、「お掃除対象となる記憶を探す」とか「氣づきを得て浄化につなげる」という意識が無くなり、ただその体験を丸腰で体感する、味わっているだけの自分になっている事に氣がつきました。

 

お掃除をするのに、雑巾もホウキ🧹も必要なく、「ただ、眺めているだけ」でいつの間にか消えてしまう。という感じです。

 

ですが、数日前にしばらくの間、理由なくモヤモヤ……と所在無い氣持ちが続きました。「しばらく経ったら消えるのかな」と、漠然と思っていました。しかし、モヤモヤしたままでした。

 

そのうちに、意識がこのモヤモヤに対して「何とかしようとしている」のを感じました。

 

幸せな氣分だったり、安心していたり、穏やかだったりすれば、それをそのまま放置してただその感覚でいるのに、氣分の種類が「モヤモヤ」や「ソワソワ」といった所在無い感じだと、その場に居続けられず、離れようとしているのがわかったのです。

 

ああ、私は、この感情に対して心地よさを感じていないから、この感情から早く次の所へ行きたいと思っているんだな、と。

 

その時思いました。

 

なぜ、「楽しい」や「シアワセ」はそのままで良くて、「モヤモヤ」や「ソワソワ」はそのままでいることに悶々とするのだろう。それは、私が「モヤモヤ」や「ソワソワ」に対して、その感覚や感情をそのまま受け入れる事を拒んでいるからなのでは?と。

 

そのとき「( ゚д゚)ハッ……!!」が降りてきたのです。

 

「モヤモヤ」も「ソワソワ」も、ただ、味わっていいんだ。どこへも行かなくても、ここから逃げなくても、心地の良い感情へ行くための策を講じなくても、ただ、ソワソワしたままの自分を全面的に受け入れて、ただ、味わえばいいんだ……と。「私は今、モヤモヤした感覚を感じている。。。モヤモヤ、してもいいよ。そのままでいいよ。何も変わらなくていいよ。ここにいていいんだよ。」と。

 

その瞬間、私はものすごい安心感に包まれました。ああ、このままで何も変わる必要はないんだ、感じたら良くない感情など何もなく、ただ、感じる事を自分に赦せばいいんだ。

 

………つまり、私は、私自身からそれらの感覚や感情に対してNGを出されていたようなもので、そのことによって所在無い思いしていたのです。

 

誰も私を否定したわけではありません。私自身が私の感情に対して「その感情は心地よくないから、ここではない何処かへ行かないと」と無意識に促していたのでした。

 

けれど、どんな感覚・感情も、「そのままでいいよ」と私自身に赦してもらえたことで、私は最大の安心感を得られたのです。

 

どんな自分も、どんな感情もジャッジせず、そのままの自分を受け入れる。これはもう何年もやってきていることで、それにより私は今、本当にラクに生きていますが、その深さがもう一段増したような、意識のシフトだったんですね。。。

 

螺旋階段を昇るように、知らぬうちにシフトも深くなっていきます。

 

多くの人は、自分以外の誰かに認められたり、許してもらえなかったりすることに意識が向きがちですが、本当の安心感とは、「自分が自分にたいして全面的に赦されている」ところにあります。

 

 

 

純粋な「氣」だけを

 

 

 

人と、人との間に感じる「空氣」のようなもの……ってありますよね。

 

「自分」がいて、目の前に「相手」がいる。その相手が変われば、間にある「氣」も変わりますね。それぞれの関係性とか、相性とかによって、まるで化学反応のように「氣」も変化します。

 

これは、敏感な人もそうでない人もいて、度合いはそれぞれだと思いますが、何となくみなさん感じられるのではないでしょうか。

 

自分にとって心地が良いと感じる「氣」は、おそらく相手にとっても心地よく、反対に「なんか嫌だな」と自分が感じれば、エネルギーレベルで相手も何か不快に感じているものです。それは言葉で説明したり、頭で理解する類のものではなく、「感じるもの」ですよね。

 

相手との間にできる「氣」は多かれ少なかれ「感じる」ものなのですが、たいていの場合は自分の内側にある恐れや不安、思い込み、期待などが相手を鏡として映し出されるわけなので(無意識に)純粋に相手との相性による「氣」の他に、そういった不純物もいっぱい混ざった「氣」を感じているのです。

 

 

余計なものを投影してしまうと、純粋な「氣」だけを感じる事ができませんから、ちょっと勿体ないですよね……。やっぱり自分の内側のクリアリングって大事です。

 

 

この「氣」は、自分の中の恐れや不安が無くなった時に、初めて純粋な「氣」だけを感じることができるのではないか?と思うようになりました。内面の投影が無くなった後に残っている「氣」。

 

 

自分軸が確立するほど、一歩引いて俯瞰した状態で物事と対峙できるようになりますね。そうなると、その場の言葉や態度など三次元的な要素はさておき、ただ自分の中心にあるものと、その場の「氣」だけを純粋に捉えることができるようになります。

 

 

そうして、そのように生きていると、もう、出来事とか、立場とか、会話の内容とかをすっ飛ばしていて……人間として考えればこれが良い、こうした方が良い、これはオカシイとか、そういうのがもうどうでも良くなっていると、ただ胸の中心が心地よさを感じていたとしたら、その「氣」だけで十分だな、と思うのです。

 

 

三次元的な言葉や態度が本質を現わしているかというとそうではないので、そこに囚われなくて良いと思います。ただ、自分の胸中心の喜びのムズムズがどう感じているか?もう、それだけでいいと思ってしまいます。

 

ただ、純粋に「氣」だけを感じ合うような状態になれたら。

 

テレパシーって、言葉の送受信じゃないと思うんです。言葉では伝わらない本質の部分を伝えあう事がテレパシーですよね。波動の送受信。

 

きっと、その割合が増えていくんじゃないかな……なんて、感じています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

流れに乗る…とは。

 

 

「流れ」のようなものがあるとするならば、「流れ」に逆らわずに生きる方がラクではありますよね。

 

流れに逆らったり、流れが来ても岩にしがみついてその場を離れない、とかだと凄く体力を消耗する氣がします。

 

これは、川の流れであれば誰でも「そりゃそうだ。流された方がラクだ。」とわかるんです。

 

けど、これを人生に例えたらどうでしょうか……。目には見えないエネルギーの大河のような中で生きている私達です。

 

特に何も問題のない、平和な時期を過ごしている時もありますが、急に環境が変わったり、何等かの選択を迫られたりすることもありますね。

 

その時に、今の環境から変化することを恐れて拒否することはよくあると思うのです。数年前までは私自身がそうでしたし、自分に合わないものは避けて生きていました。

 

しかし、この「自分に合うもの」というのは、「これまでの自分に馴染みがあるもの」というだけの話で、それが真に自分にとって合っているか、本当の意味で自分の心地よさに通じているのかと問われると、実際はそうでもなかったりします。

 

変化するのが怖い。

予測のできる状態の方が安心できる。

 

 

しかし、ちょっと前にブログに書いたと思うのですが、今の私は目の前にやって来た事に対して、例えばそれを食べ物だとすると、「これは苦手な味だ」とか、「これを食べたらお腹を壊すに違いない」とか、あまり考えなくなりました。

 

ちょっと氣乗りしなかったとしても、「目の前に流れてきたものは、とりあえず食べる」を、選択している自分に氣がつきました。

 

 

その時の内側の心理は、

 

「未知であり少しの不安はあるけれど、食べなかった未来は予測できる。しかし、食べたらお腹を壊すかもしれないけれど、食べた先のことは食べないと知ることができない。」

 

食べなかったら「食べていたらどうなっていたんだろう?」と思ってしまうだろうし、それが凄くモヤモヤする。

 

しかも、目の前に、このタイミングでその食べ物がやって来たということは、ハイヤーセルフとしては「今、それを食べさせたい」わけです。

 

例えば、内側に手放せる何等かの重たい荷物に氣づかせたいのかもしれないし、何かを昇華させたいのかもしれない。

 

いずれにせよハイヤーとしては理由があって目の前に出していると、わかるのです。

 

「たとえお腹を壊したとしても、それは流れの中で良きことなのだ」と完全に安心しきっているのです。

 

そんな自分の内側の変化について、息子と話をしました。ハイヤーセルフとか言ってもチンプンカンプンなので、現実的なたとえ話として、「苦手なモノ、嫌いなモノが目の前にやってきても、とりあえずそれをやる事にしている。なぜなら、失敗というものが存在せず、全てがただの経験だから」のような説明だったと思いますが。。

 

そうしたら、息子が「でもねー、それが難しいんですよ。それができたらもう、”卒業”だね。」と。

 

「そう、そうなんだよ。卒業なんだよね(笑)」と一緒に笑いまして。いや、確かに卒業の流れなんですけど、息子から「卒業」というワードが出た事に感動したのです。。私が14歳の時にそんな感覚ありませんでしたから、、、今の子供たちって本当に洗練されているし、先を行ってるなぁ……と。

 

地球はどんどん、軽くなりますね。喜ばしいことです。

 

 

一見、苦手な食べ物を食べる状況になった時。

 

「迷わず、食べない」という選択も可能だし、「ものすごく抵抗を感じて疲れる」のも可能だし、「氣は進まないけどとりあえず食べてみる」のも可能。どんな選択もアリですね。

 

自分としては自然と「とりあえず食べる」という一択になっている事に氣がつきましたが、これは内側のお掃除が進むと、恐れや不安が減るので、「どうなっても大丈夫なんだから、どっちでもいい」という心境になり、だったら自然と「やる、を選ぶ」になるのだと思います。

 

少しのモヤモヤや、少しの不安はあれど、全てが完璧なのだと委ねられれば、ハイヤーセルフの流れのままに進む。

 

 

「全ては完璧」って、スピリチュアルではよく言われます。しかし昔は心の底からそうは思えず、頭で理解しようと頑張っていた時期もありました。

 

しかし、自然と「本当にそうなんだ」と思えている自分になっていました。それもこれも、全てが良きタイミングで、必要な学びを重ねてきたから。例えその当時に完璧だと思えなかったとしても、後になって思い返せば、全てが必要だったのです。

 

わからないながらも懸命に歩んだ小さな自分にありがとう。そして、大きな自分(ハイヤーセルフ)に感謝です。