魂の助け合い

 

魂の成長について、考えていることがあります。

 

地球に生きている間は、みんな「肉体」を持っています。そして、日々いろんな出来事があって、そのことによって「心」が揺れたり、いろいろ「考え」たりして生活していますよね。

 

「魂」とは……肉体が無くなった後も永遠に在り続けるもので、地球の人生を終えて肉体が消えたからといって、我々の存在が消えるわけではないです。地球では、肉体が消える事=「死」をものすごく大きく捉えている人が多いと思いますが、もちろん近しい人の死は大きな出来事になりますが、死=おしまい……ではありません。

 

地球で生きている人全てに共通して、魂の本質的な目的というものがあります。それは「成長し続ける」ということです。成長というと、偉い人にならなければいけないのか?と、ちょっと緊張してしまうかもしれませんが、そうではなくて、肉体を持って小さな体験を重ねていくことにより、日々何かを感じることであったり、そのことによって熟考していく事が、その人の叡智となって成長に繋がっています。

 

ヒトは、いろんな体験をして、感情がたくさん揺れ動きます。動揺して、怒りが沸いたり、悲しい氣持ちになったりします。ここで、心だけ使って感情が揺れに揺れただけで終わり……となる場合もあるかもしれませんが、一歩進んで「それは何故だろう?」と、次に思考を使う事で自分の内面に深く落とし込むような内観が起きます。

 

そして、浄化が起きたり、腑に落ちる真理のようなものを得られたりする。

 

……感情が揺れ動くというのは、ポジティブであってもネガティブであっても、自分が潜在意識に所有している何らかの概念や記憶が、現実世界の出来事によって反応した結果なのですが、それが重たいエネルギーで心地よさを感じないのであれば、手放す事も可能です。そして、この手放す時というのは感情だけではなくて「思考」も使っているのですね。熟考するからこそ内観が深まるので。

 

「思考・感情・肉体」があって、わりと私達の脳内は「思考の声」が大きく、感情や肉体の声は二の次にされがちなので、思考過多になることに対してNGと言われたり、思考はワルモノ?のように感じられる事もあります。これはバランスの問題で、思考が大きすぎる人は、思考が大人しくなることによって魂を感じる事ができる……という側面はあります。しかし、思考自体が不要ということではありません。

 

「思考・感情・肉体」は、どれも魂の成長には無くてはならないもので、この3つのバランスで進んで行くのが理想です。どれか一つが欠けてもうまく行きません。

 

それで、ここからは、テーマとしては難しいな……と思っていますが、最近考えている事を書きたいと思います。。。

 

認知症」についての考察になります。。。。

 

認知症の方でも、当然ながら肉体を持っているので生命を維持されていますよね。そして、感情もあります。その感情も、認知症になる前となった後で、感情の複雑さや揺れ動きに、どのくらいの変化があるのかわかりませんが、感情そのものを失ったわけではありません。

 

けれど「思考」についてはどうなんだろう?と思ったのです。

 

思考……というか、私がここで言いたいのは「熟考すること」なのですが、、、つまり、日常での様々な出来事によって、何等かの感情がわき、そのことについて熟考することによって腑に落ち、これまでより視界が広がるような経験を重ねていくことが、魂の成長になってくると仮定すると、「熟考」の部分が薄れていくと、その人の地球での個としての魂の成長は、もう進まないのではないか?と思ったのです。

 

私は、ヒトの生きる目的は「魂の成長」であると思っているので、その大命題である魂の成長が望めない状態で生命を存続させていく意味って、何なんだろう?と考えてしまったわけです。

 

 

しばらくの間、この問いが内観のテーマになっていたのですが、「ああ、そうか…」の感覚が降りてきました。

 

認知症の方は、その周りにいる「身近な人達の魂の成長を促す」為に生きている……と。

 

深く腑に落ちたのです。

 

実は、本人としての課題は終わっていたり、本人とハイヤーセルフが同意していれば、今世は終了して次へ……でもいいのかもしれません。

 

それでも生きているとすれば、それは、身近にいる人が自分の内面に目を向ける事や、手放せる何かに氣づくことを助けているのかもしれない、と。

 

身近な人の魂の成長を促す………。

 

これは、認知症に限らず、重度の障害を持っている方のご家族も…そうなのかも。病の本人は、周りの人の心を揺さぶり、熟考を促し、魂の成長を加速させていますよね。

 

心が揺さぶられないと、意識を内面に向けられないでしょう?関わっている人達って、本当に大変だと思うのです。

 

でも………。そこで努力とか、忍耐とか、我慢とかを自分に課して、もっともっと、もっと!頑張らなければ!!となるとしたら……そして、もし頑張れなかったり、優しくなれない自分を責めたりしたら……。。。

 

三次元的には、我が身を犠牲にして、疲れた体に鞭打って頑張ろうとする、そんな人は素晴らしいし、心の優しい人です。

 

しかし、地球的な優しさ、人としての在り方、社会の中で良しとされる生き方は、魂の視点から見れば逆方向だったりします。「自分に対して優しくない」わけですから……。

 

自分を大切にしないで生きてきた世代の方ほど、ここの方向転換は難しいと思います。だからですね………「もう、もう、、、無理だ」と、我慢の限界を超えるような出来事が次から次へと起きるんじゃないかな…と思うわけです。これは宇宙からの愛ですが、しんど過ぎて、まったくそんな風には受け取れないと思います。

 

本人がわかった時に、、終わると思います。。。

 

今、苦しい人

今、辛い人

今、大変な目にあっている人

 

みんな、理由があってそうなっていますが、その人が悪いとかではなくて、「氣づき」が起きる為にそういう現実になっています。

 

目線が外側にあるか、内側を向いているか

 

たったそれだけの事なんですが、天と地ほどの差です。

 

自分が作った世界だと、心の底から思えるようになることが

一つの到達点でもあります。