先日、どんな会話の流れからか忘れたのですが、「千景さんは短氣ではないですよね」と言われました。
私は、その言葉に対して即答できませんでした。
「はい」「いいえ」と言えるような、単純な質問と捉えられなかったのです。しばし、考えてしまいました。
「短氣?……短氣………。短氣かぁ………」と呟いて、空白の時が過ぎていきました。すると質問された方が、「氣が長いほうですよね(・∀・)」と助け船を出されるような次なる言葉を発せられました。
しかし、その「氣が長い」と言う事に対しても、「そうか……そう……ですねぇ………」とハッキリしない回答になり、「短く……はないかもしれないですね……長い?長いですかねぇ………」と。
単なる会話なのだから、そのまま流せば良いだろうと思われるかもしれませんが、この「短氣」とか「氣が長い」という表現に対して、私は「……いや、ちょっと待てよ?」と思ったのです。
つまり、それらは「性格」ではない………のではないかと。
「あなたの性格を端的に言うと?」と聞かれて「ちょっと、短氣です」とか、普通に言いますよね。
けど、そんな性格なんて、存在しないんじゃないか?と思うのです。
私が若いころはもっと、いろんなことを問題視していたし、怒りのスイッチが入るような、心がざわついたり、イライラしたりすることもいっぱいありました。
その頃の私が答えたとするならば、「短氣……なのかな、結構、ムカッとすることはあります。。。それを言うかどうかは別として」
って感じになるでしょうか。
今は、まず、ムカッとするような事が、日常生活の中でほぼありません。皆無とは言いませんが、感じたとしても冷静に自分の内面を観察するか、ただその感情を味わうか、眺めるか……です。
これは何故か?というと、イライラする、怒りを感じる、憤りを覚える………のは、自分の内側に「〇〇するべき」「普通は〇〇する」という概念、ルールが無数にあるからです。これが沢山あればあるほど、普通じゃない出来事や、人間としてあるまじき行為をする人が世の中に沢山現れるわけですから、常にイライラ、常にムカムカ、してしまうわけです。
……「短氣」と呼ばれるような氣質になっちゃうわけです。
若いころ、許せない事が世の中にいっぱいあって、常にモヤモヤしていた自分が、今となっては、「許す・許せない」の概念から外れた所にいて、感情が乱されるような事が起きず、ただ眺めているのですから………。
短氣は、性格とは違う
と思います。
「短氣じゃないですよねー」という質問に、時間を置いて今ならば、「それは内面の浄化の度合いの話であって、性格とは無関係なので、日常であまり怒る事が無いのは浄化が進んだ結果かもしれないですね。」という回答になります。
ただ、これも、、、
こんな事を言って、「えっと……???」となる方もおられるので、どんな風に表現するか、どこまで説明するか、あるいは言わないか、は、そのお相手によって変えています。
「短氣」について考えるキッカケをいただけたこと、考えが深まって面白かったです。