我慢弱いひと

 

変なタイトルになりました……。

「我慢弱いひと」

 

そんな言葉ありませんよね(笑)

「我慢強い人」は、よく言われる言葉です。

 

 

今日は、「我慢強い」という状態について、考えてみたいと思います。

 

 

 

昔は、「我慢」ってアタリマエの世の中でした。

親や、先生や、目上の人の言う事を守る事

状況を考えずに自分のワガママを通さなない様にすること

 

それを、「我慢」と表現するのもどうかと思われるほど

皆と足並みをそろえること、迷惑をかけない事は

 

当然のこと。

 

でした。

 

 

 

だから、年配の人はとくに、自分が「我慢している」という自覚は無く、

 

それが当たり前

そのくらいは出来るもの

みんなもそうなんだから

 

そんな価値観で生きてきたから、それが「集合意識」となって

日本の上空に大きな雲のように浮かんでいます。

 

 

一見、人間として正しい行いのようで

周りに対しての配慮があるようでいて

 

 

「我慢できる」「我慢強い」という状態は………

 

 

自分の我慢できるラインを、

無意識に周囲の人にも強いている傾向にあります。

 

本人にとっては、「嫌々、我慢してやっている」のではなく

長い人生の中で習慣となって、当然の在り方になっていまっているので

もはやそれは「常識」と言えるほどの強固な概念になっています。

 

 

しかし。

 

 

本当は、誰しも幼いころは、親から我慢を強いられた時に

「え?」……と思ったり

「なんで?」………と思ったり

抵抗感を感じ、悔し涙を流した事も、あったかもしれないし

怒られるのが怖くて、抵抗感を示すこともしなかったかもしれない

 

しかし、心の奥底にはあったのです。

「なんで?」「そんなの嫌だ」という本音が。

 

 

我慢して生きてきた年数が長い人ほど

心の奥底に怒りや悲しみがマグマの様に煮えたぎっているのですが

あまりにも我慢が習慣化し、

もはや自分はそういう人格、と本人が認識していたりして

 

内面にある感情に氣づく事が困難になります。

 

 

「我慢強い」

………これは、誉め言葉ですよね。

一般的には。

 

 

私も若いころは、そうとう我慢強かったです。

それでも、心はカチカチに固くて、とてもとても疲れていました。

頑張って、踏ん張っていました。

だから、頑張っていない人をみると、腹が立ちました。

 

「そのくらい、どうして頑張ろうとしないの!?」

「責任感を持ってよ!」

「もっと、正しく生きなさいよ!!」

 

………そのくらい、思ってました。。。

 

 

その時の自分を、今の自分が俯瞰で見た時、、、、、

当時の私は、「目の前の人の、後ろ側」を全く見ていませんでした。

 

どういうことか?というと

人間には、いろんな人がいて、その人の歩んできた人生というものがあって、

生い立ち環境というものがその人の今の在り方に影響を与えていて、パッと見ただけではわからない、その人の深さがあって………だから、こちらの価値観の押しつけは不可能で、そんな行為は相手に対して尊敬も配慮もない、傲慢な状態だったんだ………。

 

ということです。

 

 

自分にとって普通にできる事が、世の中の常識であり、正義であるなんてことは

絶対にないんです。

 

 

今の自分には、それがわかる。

わかる自分になれて、本当に良かったと思います。

 

今の私は、全く「我慢強く」無く

むしろ

 

「我慢弱いひと」………です。(今日の記事のタイトルですね笑)

 

 

自分がこの年齢になって、自分の全てに対してOKを出せるようになり

とてもラクに生きられるようになると同時に、周りの人の今の在り方に対して、その後ろ側を見るようになりました。つまり、その人の言動そのものよりも、それを言う今の状況にいたった背景を観ている………という感じです。

 

こういう観方ができるようになってもう、数年になります。

 

それが当たり前の感覚としてすっかり定着しました。

なので、とても平和にゆったり生きています。

 

 

なのですが(笑)

ここ最近ですが、自分が本来は苦手で下手くそな事を、どうしてもやる必要がある状況に置かれまして、アップアップしながらやっているんですが、その状態に対して……

 

悪氣なく、笑われた事がありました。。。

そして「そのくらい簡単でしょ~、大したことないじゃない」と言われました。

 

 

そこで、今の私にはめずらしく、

咄嗟に感情が「反応」したのです。これは、とても珍しいです。

「カッ!!!」となりました。

その感情は、怒りなのか、悔しさなのか、内観しつつ‥‥深堀を始めました。

すると、

私が下手くそなりに頑張ってやったその氣持ち、行動、費やした時間を、全く見ずにすっ飛ばして笑われた、そんなの大した事じゃないでしょ、と言われた事に対して、

 

「私には難しい事だったので、その背景を理解して欲しかった」

「ねぎらって欲しかった」

 

という思いに行き当たりました。

 

そしてこれは、私が子ども頃から、ずっと親に対して感じていた不満でもありました。

 

 

久しぶりに、その感情を思い出す事ができました。。

忘れていただけで、潜在意識の奥底にずっと残っていたであろう塊を。

 

 

我慢強い人は、

だいたいの事は「それくらい、大したことない」と判断してしまいます。

 

 

私の親は、優しく、我慢強く、いい人でした。そんな人に育てられているにも関わらず、子どもの頃の私は、

 

「何がこんなに息苦しいんだろう?」と思ってました。

 

生きているだけで苦しいこの不器用な私の背景を、言葉に表せないこのしんどさの背景を、

 

おもんばかって欲しかったんだろうと思います。

 

幼い頃からずっと「どうせわかってもらえない」と頑なに心を閉ざしていました。

そんな頃の自分を思い出しました。。。。

 

 

 

これは、私が直傳靈氣のセミナーの時によくする話なのですが(笑)

「自分の生きている「地球」に、何億もの人が共存しているのでは無くて

何億もの人が、それぞれ「別の地球」に住んでいる。」

 

こういう視点で生きてる人も少しずつ増えてきました。

 

 

「普通」とか、「アタリマエ」とかそういうものは、本当は無くって。

自分の地球の常識は、相手の地球には関係ないのです。

 

 

さて、今、私は自分に珍しく沸いたこの「感情」に対して

何と言ってあげようか。

 

そう思いながら、ブログを書きました。

ここに書く事で、自分なりに浄化が進んでいくわけです(笑)

 

先日のブログにも書きましたが

人間には「言葉」という不完全なツールがあるので、自分の思いを不完全でも表現して、氣持ちを伝えるのか。これも、状況によります。相手があまりにも自分のエネルギーと違う所い住んでいる場合は。

けれど、何より大切なのは、まずは

 

自分が自分の氣持ちに氣がついていること。

 

………これです。

これが、めちゃめちゃ大事です。

 

何がそんなに、悔しかったのか。

何がそんなに、悲しかったのか。

 

ちゃんと掘り下げて、自分の本音を知る事です。

 

 

実は、潜在意識の中に、そういう周波数を持っていた、と言うことに

氣づかせるためだけに起こった出来事なので(全ては)

 

氣づいて、わかって、

手放す

 

 

それだけ……(∩´∀`)∩

 

 

潜在意識の低い周波数が浮上でき、手放せたってのはやはり

ライオンズゲートの恩恵かもしれません。