うまく行かないならば、真逆をやってみる

 

 

 

ここ2週間くらいなのですが、ある事を試しています。それは、「のんびり運転する…」というものです……(・・?

 

 

何故かというと、自分は日常生活の中では、もはや慌てたり…急いだり…自分を追い込むようなことは、一切ないのですが(突発的な事が起きたら一瞬( ゚Д゚)!となっても、すぐに平静に戻るかな)だがしかし、日常生活の中で「車の運転」だけは、なんだか急いでいる、常に急いでいるのです。その事に、拭えない違和感を感じているのです。

 

 

特に粗い運転をしているわけでもなく、運転中は集中していますし、真面目なドライバーなのですが、運転するという事は、どこか目的地に向かって移動しているので、まあそんなにノンビリはしていないのです。やる事はいろいろある中での……誰かの送り迎えとか、買い物とかなので、ゆっくり、のんびりは走れないのです。

 

そして、もうジャッジなどほぼ無い世界で生きているのですが、車の運転中だけは……他のドライバーさんに「!?」と感じてしまう事が、チョイチョイあります(笑)どんな場面かと言うと、、、

 

🚙先頭の車が、もの凄い……ゆっくり運転していて、後続で渋滞になっている……とか。

🚙前の車が、左折直前になってウインカーを出す……とか。(危ない)

🚙車間距離を捉えるのが苦手なのか、そのタイミングで!?とコンビニから車道に入ってきて、しかもその後の運転速度がやたら遅い……とか。

 

です。こういう時に、「…なんで?( ゚Д゚)」と思っちゃうんですよー(笑)それで、これまたスピリチュアルな話ですけど、自分の内面がチクッとするときは、浄化のチャンスなので(笑)車の運転に関しては、なぜこの場合だけが気持ちが急いてしまうのだろうか…と、実は4年前から自問自答していたんですよ。

 

まあ、上記のような事でイラッとするという事は、自分に課しているルールがあるからなので、私の場合は

🚙前の車と一定の車間距離はとるが、前の車について、流れに乗って走る事を心掛けている

🚙ウインカーは、後ろの車の為に出すので(追突のリスクがあるから)ちゃんと前もって出す。

🚙自分が車道に出る時は、走っている車にブレーキを踏ませるような出方はしない。

 

 

こういうルール……というか、マナーを守って運転しているわけなんです。だから、周りの事を見ないで運転している人を見ると、イラッ……としてしまうのです。

 

それで、2週間前に「私は…車の運転中に、いつもの日常生活で感じるような、のんびりした気持ちとか、気分の良さを感じていないな……むしろ、いつも急かされている精神状態にある。という事は、本来の自分の状態とズレがある」と思ったのです。

 

理由とかを内観しようと思ったんですが、そもそも4年前からこの課題については、これといって解決策も無かったので、よくわからないならば、「真逆をしてみよう」と思ったんです。

 

 

それで、

・車間距離をしっかりとって、ゆったり走る

・目的地に到着する時間について、一分一秒を争う気持ちは捨てる

・焦るくらいなら、余裕をもって早く家を出る

 

これを課したんです(笑)

 

 

・・・それで、どうなったと思いますか???

 

はい。めっちゃ快適に、ゆったり運転できていて、しかも遅刻することもなく、精神状態が180°変わったんでーす!!(´▽`*)わーい! 別人かい!?というくらい、ゆったりした気持ちでいられて、シアワセです。……ということは、これが、本来の自分なんですよね。

 

 

車線変更しても、スピード上げても、到着時間なんて3分くらいしか変わらないのに、そのちょっとを急ぐ必要はない…と、思えるだけで、こんなに余裕ができるのか!

 

そして、気づいたのは「私を急かしているのは、世間でも、予定でもなく、私自身だ」という事実です。

 

私が、私の概念に急かされて、気持ちに余裕なく運転しているだけで、誰からも急げ!なんて言われていないのです。

 

 

その、「私が、私を急かしている」件について、今日になってわかった事があるので、書こうと思います。それは、私が目的地に行くのに時間を気にするようになったり、人に迷惑をかけないように、と思ったりしたのは「18歳以降だ」という事。

 

 

18歳の時に何があったのか。

 

はい、18歳で東京へ上京したばかりの頃、田舎暮らしに慣れていた自分は、分刻みの電車移動に慣れておらず、最初の頃ものすごい遅刻ばかりしていました。短大が電車と路線バスを乗り継いでいくのですが、だいたい家から60分くらいかかるから、そのくらいに家を出ればいいんだ……というアバウトな行動で、そんなにタイミングよく電車とバスの乗り継ぎがうまく行かなかったりして、毎回遅刻なんです。……そう、時刻表というものをあまり意識していなかったのでした…(笑)

 

それで、慣れない東京で、上手く行動できない自分に自信がますます無くなり、大勢の人があらゆる方向へ向かって交差しながら移動する駅の構内で、モタモタしていたらオジサンにぶつかり、「チッ!」と舌打ちされて、にらみつけられ……。もの凄く落ち込み、もの凄く疲れ……。人に迷惑かけたらダメなんだ。サッサと動かなきゃダメなんだ。時間に遅れたらダメなんだ。と、学習したわけです。

 

ああ、その体験が今も尚、私を急かすのか……と、初めて気づきました。もう、何十年も前の話なので、急ぐのが当たり前になってしまい、それ以前の自分を忘れていたんですね。

 

それに気づいて思い出したのですが、私は幼い頃から高校生までは、約束の時間に遅刻するのは当たり前……。学校でも忘れ物が多く、行事とかもスッカリ頭から飛んでいて、わりとボンヤリ生きていたと思います。ボンヤリが基本なんですが、小学校ではすでに、「やらなきゃならないもの」が次々と出てきますから、その流れについていくのに、凄く疲れていましたし、楽しくなかったですね。。。表面では普通の顔をしながら、出来事にも、人間関係にも、どこか心をキュッ……と縮めていました。

 

 

もう、今となっては自分は、予定が詰まっていたりとか、特にやりたいわけでも無い事をカリキュラムとして課せられたりすることに、蕁麻疹が出るくらい嫌なんだと知っています。けれど、子どもの頃は、あれよあれよという間に「学校」という場や、勉強や、人間関係の波に呑まれて、徐々に自分というものを見失っていったんだな…と思いました。その頃の訳も分からず疲れていた幼い自分の肩を、そっと抱いてあげたいな…という気持ちになりました。

 

 

車の運転から、過去をいろいろ思い出しました。良かったと思います。

 

 

みなさんも、何かでイライラしたり、チクチクしたり、何だか楽しめないなーと思ったりしたら、こうやって内観してみたり、内観が苦手だったら今回の私のように「真逆をやってみる」のをお勧めしますよ。(∩´∀`)∩

 

おハナちゃん

 

 

 

私は、毎週土曜日に、家から車で20分くらいの山の中にある「陶芸教室」に通っているのですが、車の中ではだいたいスマホにダウンロードしてある曲を聴いています。けれど、だんだん手持ちの曲に飽きてきてしまい、なんとなくカーラジオのFMに切り替えました。

 

「土曜日の朝8時30分前後にFMを聴くタイミング」がわりと重なり、毎回その時間のFMラジオから流れてくる、なんとも可愛らしい声の主に、心をワシヅカミにされました(笑)……そのラジオのパーソナリティは、女優の「杉咲花さん」です。

 

杉咲花のFlower TOKYO」

 

 

彼女の声がとても可愛らしいのですけど、声質だけでなく、彼女のハートがとても素直で、シアワセを感じているのがわかる声、話し方、しゃべる内容……なのです。

ウフフ(*´艸`*)……アハハ(*´∀`*)……と、コロコロとよく笑って、本当に楽しそうにおしゃべりされていて、そこに、めちゃめちゃ癒されます。

 

 

 

なんというか、彼女の発する波動が人々に幸せを伝搬させるんだな……と思ったわけです。彼女はただ、自然におしゃべりしているのだと思いますが、こうやってラジオの電波を通じて多くの方のハートをホッコリさせている。

 

ラジオって、声とか、音とかが、電波に乗ってやってくる…というか、そういう周波数をキャッチしてこちら側は聞いているので、なんとなく、ご本人の「波動」が伝わりやすい気がします。聞いている方も「耳」からしか受け取れないので、よりピュアな状態でキャッチしているのかな。

 

日常生活では、人それぞれいろいろあるだろうし、いろんな境遇、いろんな考え、本当にいろんな人々が、ラジオを聞くと思いますが、そういう聞いている人の土壌とか、タイプとかをすっ飛ばして、ダイレクトにハートに届く……のが、ラジオなんじゃないかな…と思いました。

 

私はテレビはあまり好きではなくて、ほとんど見る事ができる番組は無いに等しいのですが、唯一見ている番組(せかほし)も、見ていてホッコリして、シアワセな波動が出ているんですよね。

 

波動の取捨選択をしているつもりはないのですが、やはり自分がシアワセ…(*´艸`*)な気分を感じるのが好きなので、自然とそうでないものは見なくなります……。

 

 

杉咲花さんは、ラジオの中では「おハナちゃん」と呼ばれていて、リスナーさんもとても多い様です。みんな、土曜日の朝にホッコリしているんでしょうね~。

 

良かったら、皆さんも聞いてみてください。

 

 

 

あの時も、この時も、今この瞬間も。





 

日が暮れるのが早くなりましたね……

18時前にはもう暗い( 一一)

 

 

人って、本当に陽光に影響されるんだなぁと思うのですが、同じ18時でも夏至の頃はまだ昼間?くらい明るいので「これから買い物でもいくかー」という気にもなるのですが、暗くなった18時だと私は「……もう、一日は終わった。そろそろお風呂に入って眠りたい…」となります…。自然のリズムの中で生かされている……と感じます。

 

今日は、用事があって、犬の散歩の時間が遅めになり、既に辺りは暗くなり始めていて、散歩をしていたのはウチのワンコだけでした💦

 

 

けど、ちょっと遅めの散歩になったおかげで、今日が満月だという事に気づきました(笑)低い位置にオレンジ色っぽく大きめに見えました。

 

 

今日は、牡牛座の満月らしいのですが、自分は月星座が牡牛座であり、マイ月星座の満月……となると、ちょっと特別なのではありますが、半年くらい?前から、もう新月や満月のリズムはあまり意識しない生活をしており、「おお…そういえば満月か……」くらいのテンションです。でも、月が綺麗で癒されますね~。

 

 

特に願い事などもしないのですが、お風呂に入ってからふとアクセサリー置き場に目が行き、「あ…そうだ、石を月光浴をさせてあげよう…」と。


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うまく撮れなかったですけど、sola✻tsuchiさんの、マクラメアクセサリー達を月光浴させました。毎日身に着けていたお気に入りさん達。今は仕事柄、身に着けられず😢……けど、満月に当てて石が気持ちよさそうです。……私達もお風呂に入って綺麗にしてよ…!!と、石に呼ばれたのかもしれんなー('◇')ゞと思いました。

 

 

実は、四年前の今日は、外側を見て生きてきた自分の「ベクトル」が反転した日でもありました。……いや、いきなりガラッと変わったわけではなく、その少し前から徐々に兆しはあったのですが、この日を境に真反対へ舵を切ろうと決意したような感じでした。人生って面白いですね。

 

 

そのころの自分と、今の自分は、もう別人のように違います……。あの頃の私に、今の私が何を言ってあげられるだろう……?と考えてみました。

 

 

けれど、やっぱり「あの頃の私も、懸命で、素晴らしかったな……」としか思えませんでした。なので、今の私から励ましとか、アドバイスなんて、全く必要なく、当時の私は、当時の私の課題に真摯に向き合っていたわけで、それはあの時の私にしかできなかった事なのです。そして、それは四年前の私の事だけでなく、常に、毎瞬、毎瞬、同じ事なんですよね。だから、今の自分の姿も、数年後の私から見たらきっと「そのままで大丈夫だよ!素晴らしいよ!ありがとう!」なのです。

 

 

4年経って、別人のようになった私ですが(というか、むしろそれ以前が別人のように人生を生きていた訳ですが)もちろん、今の自分の方がラクに生きており、いろいろが良く見えています。けれど、あの頃の私も、どの時の私も、やっぱり素晴らしい……と、心から思います。手探りでも腐らず、あきらめず、歩き続けてくれてありがとう、と言いたいです。

 

 

そして、これはきっと、ハイアーセルフと同じ気持ちなのだろうな、と思いました。ハイアーセルフは、私が地球に生まれてからこれまでの間、ずっとそんな気持ちで共に居てくれたのですよね。私が外側ばかり見て生きていた長い間も、ただ、その経験を、「素晴らしいよ、ありがとう」って思いながら、私の目の前に「いろんな出来事」を現わしてくれているわけです。

 

 

そう思うと、心強いですよね…

 

どんな情けない自分でも、どんなに先の見えないトンネルにいる気分でも、全く成長していない、進んでいないと思えたとしても、その思いの全て……その経験の全てが「完璧」だった、とわかれば…。

 

 

こうやって今日、4年前を振り返って、今の私が感じたように、あの時の自分で完璧だったわけです。

 

もちろん、当時の自分には全然「完璧」だなんて思えなかったですよ…。自分が変わらなければ!自分が成長しなければ!と必死でしたから。不完全な自分、が前提の発想で答えを探していた……わけです。けど、それでも今の私からみたら「完璧」です。面白いですね。

 

 

素晴らしい人になってから幸せになれる。

この課題をクリアしたら先へ進める。

 

 

そうではなくて。

今の、その悩んでいる、疲れている、自分そのままで……不完全に思える自分のままで、大丈夫なんだ…ということ。

 

 

過去の自分を振り返って、そう思えたなら

今の自分だって同じように「大丈夫」

 

 

 

正解なんてなくて、

何かをしていても、何もしなくても、

 

 

どれでもいいんだな(笑)

と思える。

 

 

 

それを

アセンション、というのかもしれないし

安心立命、というのかもしれないし

シフト、というのかもしれないし

悟り、というのかもしれない

 

 

外ばかり見ていたら気づけない

それは自分のハートの中に

最初からあった

 

穏やかで…優しいもの

 

 

 

良き満月の夜をお過ごしください🌕

 

 

 

 

ハイキューSOS!!

 

 

 

最近は、なんだかとても忙しく

ゆっくりお散歩瞑想をする時間もないので

なかなかブログに書きたくなるような直観も

降りてきません………"(-""-)"

 

 

それで

仕事や、家事や、子どもの送り迎えや、そんな合間に、例えば15分だけ時間ができた!というような場合ですが

 

 

ここで何をやるかは、いろいろあると思うのですが、私の場合は…

 

フリーズしています……(笑)

 

 

そう、フリーズしているんです

ということに、気づいたのです……(=゚ω゚)ノ

 

 

具体的には、そのちょっとの時間に「瞑想」をする、とかじゃなくて、ネットフリックスで「ハイキュー」を見てしまうのです‥‥。


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なんだ、アニメ見てるのかー……なんですけど、ハイキューはもう既に、全話見てしまったのです。けれど、それを繰り返し、繰り返し、何回も見ているのです。

 

 

その姿を見て、家族は「また、ハイキュー?また!?何回目???」と、ちょっと引いているんですよね……(゚Д゚;)ストーリーを知っているのに、何度も見て、何が楽しいの?頭オカシイんじゃないか?なんで、他のアニメを見ないのか?と……

 

 

その時は「何度見ても面白いし、好きなんだよー」と思っていたのですが……気づいたのです、私は脳内がフリーズしていたのだということに。

 

 

たぶん、日常が忙しすぎて、現実逃避したくなるというか、何も考えたくなくて、お気に入りの音楽を聴くように、ハイキューを見ているんです。

 

新しいものを開拓するほどの、好奇心もエネルギーもわかず(開拓するのが疲れるから)ハイキューの純粋なバレー青年達のストーリーが、今の自分の精神状態には安心感があって、いいんです。

 

 

これも、波動なのかな……と思うのですが、疲れている時は、刺激的なモノとか、重いモノとか、困難なモノとか、そばに置きたくないんだな、、と。

 

 

そんなわけで、家族は私のことを、無類のハイキュー好き!と思っていると思うのですが、実のところそうではなくて(好きだけど)精神安定剤的な、癒しを求めてのハイキューなわけです。そして、ハイキューを見ている間は「脳がフリーズ」しているんですねー。

 

 

お散歩瞑想は、脳が空白になった所に、いろんな直観が降りてくるのですがハイキュー瞑想(?)は、完全に、ただ真っ白になって、脳が癒されています。

 

 

 

本当に、人間の身体というのは凄いな……と感じざるを得ません。意図してフリーズしているのではなくて、宿主の心身を健全に保つために具合が悪くなったり、思考が停止したり、鬱になったりするわけですから本当に、身体は間違えないし、治り方を知っているんだな…と感心します。

 

 

自分は、本当に「何もしない時間」が沢山必要なんだな、と思います。みんな、忙しすぎるのは疲れると思うのですが、それが極度にダメなタイプなんだと、知ってはいたけど、自分が自分の事を、一番に大切にして生きていると、ほんの些細な事でも、心や体のSOSを察知する。

 

やっぱり、疲れている身体に鞭打って動いたり、このくらい平気!と我慢したりは、もう絶対にできないな……(笑)と、そんな自分を内心、祝福していたりします。

 

 

 

そもそも「生きがい」の為に「やりがい」を求めてもいないので、忙しいと、生きている感じがビンビンする!!みたいにならない…( 一一)

 

 

ただただ、「空白」が欲しいナマケモノです。

 

 

 

自分はやはり、空白の中で生きていたいですし

それでこそ、気づきが降りてくるので

 

 

ひたすら忙しい……という事に、耐性が極度に低いんだなぁ…と。そういう、自分のトリセツのようなものも今回痛感したので、それはそれで、良かったなとも思います。

 

 

そして、そんな自分に、自分が「OK」を出せている安心感というものが、何ものにもかえがたい‥‥のです。

 

目の前の世界がいろいろ変化しても、内側の世界は安心の中にある‥‥ということです。

 

 

まあ、でも、今は肉体をまとった人間でもあるので、心身の疲れは、しばらくハイキューに癒やしてもらおうと思います(^^)

 

 

 

 

 

 

「甲斐が無い」問題

 

 

人生に「生き甲斐を見いだせない」

仕事に「やり甲斐がない」‥‥など。

 

 

 

甲斐…とは、

「努力した効果や、期待できるだけの値うちという意味の語」

だそうです。

 

 

 

なので「〇〇の甲斐が無い」とは、自分の仕事や、自分の人生に対して「期待できるだけの価値が無い」と思っている状態なわけです……。厳しいですね。

 

 

人生や、仕事に、生きがいや、やりがいを感じたい心情は、仕事や人生そのものに対して「価値を見出せなければ、自分は存在する意味が無い」と、自分が自分に対して判断している…ということです。

 

特に「やり甲斐」を感じないで生きていたり、仕事をしていたりすると、

 

「こんな仕事をしていて、意味があるのだろうか」

「自分はこんな人生を送っていて、人としての価値があるのだろうか」

 

という思考回路に陥いります。

 

 

 

「その思考回路…本当に必要?」と思うわけです。自分にも、長年生きてきた価値観の残り香のようなものがありますから、一瞬思う時もあるのです。「自分…こんなことしていて、いいのかな」と。けれど、なぜそういう思考回路になるのかな?と考えると、やっぱり「〇〇甲斐が無い」の発想が、そうさせるのです。

 

甲斐が無くても、何の問題もないのに。

 

これでいいのだろうか……と一瞬思ったところで、「あれ…?なんでこれでいいのだろうか…なんて、思うのかな?」と自問自答が始まります。すると、「いや……何も問題なんてなかった」という結論に、やっぱりなるのです。

 

 

そもそも「ただ生きている事に価値がある」わけですから、極論…何もしなくても、自分の価値は一ミリも減る事はないのです。

 

 

世間体を気にして、やりたくもない努力を続けたり、外側に自分の価値を見出すものを探しに出かけたりするのは、「自分は何かが足りない存在だ」……の信念が、根深くあるわけです。

 

目標を持つことや、努力し続ける事そのものに価値があるわけではありません。

 

 

ただ、純粋にやりたい事をやる。

ただ、純粋に思う通りに生きる。

 

 

…それだけなんですよね。

その結果が、その人にとっては努力し続ける事ならば、それでいいのです。それは「不足感」から発生したやる気、ではないので、自分の「ただ、やりたい気持ち」をエネルギーにしているので、いつまでも楽にスピンを回す事ができます。

 

 

自分が、この世界の中での「何者かになる必要」が無いと知ってからは、とても楽になりました。だから、今の自分とは違う、立派な存在(?)になるべく、日々努力を重ねなくてもいいし、自分の立場や、自分の仕事や、自分の役割は、今世の自分を彩るパーツの一つでしかなく、それらは流動的であって、そのパーツの一つによって、自分の存在が決まるのでは、全くない……と感じている為、あまり自分の社会的な立場や役割に対して、重く考えていない…のです。重く……というか、そもそも「考え」そのものがありません。

 

そうなってみて感じるのは、「自分が自分に対して、問題を感じていなければ、問題は存在しようが無い」という現実です。

 

 

私は、世の中のあらゆる人が、私の人生に対して何か思う所があっても、それぞれの感想を持たれても、自分自身は、全く影響を受けることがないのですが、それは、自分が自分に対して「なんでもいい」と思っているからなんだな……と思います。

 

 

甲斐……を感じたい正体は「エゴ」で、エゴはいつも欠乏感を抱えており、不安なので、自分の価値を「やりがい」や「生きがい」の中で感じて安心したいのです。そして、それは不安から発しているのですから、それらを思う気持ちには終わりがありません。

 

 

やりがい、生きがい……。一見とても素晴らしさを感じさせる言葉なんですけどね。これらを求めて続けて生きていくのは、しんどいだろうな…と思います。

 

 

 

甲斐が無くてもいいじゃないか……

外側から評価されることに価値を見出さなくてもいいじゃないか……

 

 

自分に対して「不足している」という概念が無ければ、「甲斐」を求める必要もなくなる。本当に、そもそも「満ちている」のだから。

 

 

やりたい事があれば、純粋にそれをやり……

やりたい事が無ければ、ただ、自然に任せて漂う……

 

 

そんな、シンプルで

そんな、軽い

 

 

そういう人がこれからは増えていく氣がしています。

 

 

そうやって集合意識が変わっていくんだな……と

思ったりします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近のハートが揺れた話を2つ( ´艸`)

 

 

 

ブログの更新が遅れております……m(__)m

 

10月から期間限定で外で仕事をしています。渋滞を避ける為に、朝はかなり早く出るのですが、渋滞ポイントを抜けるとスイスイ進み、仕事場に早く到着してしまいます。

 

それで、道中に自然公園があるのですが、そこの駐車場で10分ほど停車して、瞑想…というか、ボーーーーッとする……というのを、やってみたところ、精神のリセットにとても役立ち、いい気分になるので、習慣化することにしました。

 

その時は、考えたい事柄など思い浮かんで、ボーーーッとしていると、なんとなく自分なりに思考が進んだり、納得できたりします。何より、自然公園の緑がとても美しくて、「ああ、私は、風に揺れる木々を見て、幸せを感じる為に生まれて来たのかもしれないな…」とすら思うのです。

 

そう、バリバリ仕事をして世の中に一石を投じる「何者か」に成る事でもなく、 人道支援をして献身的に尽くすわけでも無く、ただ、ただ、自然を感じて心地よさを味わうことが自分の幸せのベクトルなんだな……と思うのです。

 

えー?そんなことー?と思われるかもしれませんが、それが一番腑に落ちるのですよ…。私のシアワセを感じるのが、自然の中でボンヤリすることや、犬猫を触ってホワホワ♨…する事なのだと、自分が自分に対して許せるか、認められるか、という…それだけの問題なんだな、と思ったのです。

 

…若いころの自分であれば、そんなの、絶対に認められなかったでしょう(笑)

 

世の中に認められる「何者か」になる事が生きる事だと思っていたし、立派な人は自分のことを顧みずに人の為に尽くせる人なのだと思っていました。

 

自分が、自分のどんな所でも「それでいいよー」と思えるようになってからは、ただ、自分が心地よい事を、ただ感じて、ただ喜ぶ事ができるようになりました。

 

…それって、シアワセですよね(∩´∀`)∩

 

 

 

シアワセついでに、最近、自分のハートが揺さぶられた出来事を2つ書きます。

 

 

 

一つ目は

仕事の帰りの車で見たある光景です。

中学生が学校帰りに何人か歩いていました。セーラー服の女子が3人で楽しそうにお友達としゃべりながら歩いていました。

 

その少し先に、中学2年生くらいかな?の、眼鏡をかけた素朴そうな男の子が歩いており、ふと、道路の「お地蔵さんの祠」の前で立ち止まり、手を合わせてお参りしたのです……。

 

「ほお……今時の中学生が珍しいな…」と思って眺めながら車で通過する時、その男子は、自分がお参りしている姿を誰かに見られたかな?と一瞬恥ずかしそうにキョロキョロ……👀として、頬を赤らめて歩き始めました。(すぐ近くに女子中学生も居たからね笑)

 

その姿が、なんか、いいなぁ……と思いました。とてもホッコリしたのです。それからは、そこを通るたびに、あの男の子と会えるかな?と探すのですが、まだ遭遇していません。

 

けれど、そこの「お地蔵さんの祠」から、ちょっと祠のサイズからはみ出るくらいの、小さな紫色の花がワーーーッと飛び出て飾られているのを見ました。お地蔵さんの横には、こじんまり菊とかが、小さな花瓶に飾られるのは見ますが、ここまで花が溢れるように飾られるのは、初めて見ました。

 

あの中学生の彼が置いていったのかはわかりませんが…。とにかく、このお地蔵さんが地域の方に愛されているのが感じられました。……それが、ほっこりポイントでした(笑)

 

 

 

そして、今朝の事ですが、仕事場に早く着いたので、駐車場で明日公開の「鬼滅の刃(無限列車編)」の主題歌をYouTubeで聞いてみようかな…と、動画を再生し始めた所、開始10秒で涙がダァァーーーと出てきてしまい、「ダメだ、ダメだ、この涙は明日の映画館まで取っておこう( ̄▽ ̄;)」と画面を閉じました。

 

LISAさんの歌声と、歌詞が、漫画でストーリーを知っている自分のハートに、グググ……っと刺さって、涙腺が崩壊寸前になりました。なんてハートを揺さぶる歌なんだー(涙)

 

煉獄さん押しの自分には、特にキタのでした。

明日は、初日に映画館へ行きます(仕事終わって直ぐに…( ´艸`)

 

 

 

ハンカチ持って行かなきゃな……とは思っていましたが、この主題歌「炎(ほむら)」の開始10秒で涙腺崩壊になるくらいなので、ハンカチで足りるわけもなく、タオルかバスタオルを持参した方がいいかもしれない…(涙を拭く為だよ)と思いました。

 

 

明日は煉獄のアニキの雄姿を、大画面で見てきます…♡

 

"炎(ほむら) / LiSA 【歌詞】鬼滅の刃 無限列車編 主題歌 【フル】紅蓮華『Homura』Demon Slayer Movie Mugen Train by double" を YouTube で見る


炎(ほむら) / LiSA 【歌詞】鬼滅の刃 無限列車編 主題歌 【フル】紅蓮華『Homura』Demon Slayer Movie Mugen Train by double - YouTube

幸せのハードル

 

 

 

「足るを知る」

 

 

という言葉があります。若い頃の私は、この言葉の意味を、「分相応であれ。自分の身の丈に合ったものを、有難く受けいれ、慎ましく生きよ……」と解釈していました。

 

もっと言えば、この言葉には「自分程度の人間は、多くを望まず、ちょっとの事で満足しろ」のような、自己卑下や、日本人特有のへり下りの美学のようなもの…すら、感じていました。

 

 

世界には飢えて餓死する子ども達がたくさんいるのだから、自分なんて、マシなんだ。だから、これで幸せだと思わなくちゃ、人としてダメなんだ…とか。

 

納得していないくせに、いろんな場面で、比較して我慢して、長く長く生きてきたと思います。

 

 

 

日本には、いただき物をしたら、お返しをする。という習慣があります。しょっちゅう人に物をあげる人っていますよね。「余ってしまうともったいないから」「喜んでくれると嬉しいから」

 

そして、ここからタイプが2つに分かれます。「あげて完結している人」と「無意識にお返し(気持ち)を返してもらおうとしている人」です。

 

 

「あげて完結している人」からもらうのと

「お返しするのが暗黙の了解の人」からもらうのとでは……

 

 

受けるエネルギーが全然違います。。。

 

 

もう、息をするように自然に、人に常にお裾分けする人もいますね。田舎なんかでは、自分の畑でとれた野菜を近所の玄関先に勝手に置いて行くのが当たり前で、家に帰ったら自分の家にも米やら、魚が置いてあった。みたいな話もありますよね。そこは、持ちつ持たれつの社会が成り立っているのだと思いますが、

 

 

「あげたら、お返しをするのが常識」と思っている人にとっては、お返しをしない人は「非常識」になります。自分もいただいたら当然お返しするし、お返しが無いという事は、感謝の気持ちを表していない…という判断になります。

 

やっぱり「〇〇したら、〇〇すべき」という概念は、自分が非常識だと思われたくない、劣っている人と思われたくない…という「恐れ」がベースにある行動です。

 

もちろん、100%恐れだけ…ではなく、嬉しさや感謝があってこそなんですが、それでもやっぱり、恐れが含まれているので、ちょっと重たいというか、気持ちの良いコミュニケーションにはならないんですね。

 

 

 

 

「あげて完結している人」が渡しても、「お返しするのが常識だ」と考えている人が受け取れば、そこでもエネルギーの捻じれが生じます。

 

やはりエネルギーというものは、放出されたものを、ただそのまま享受する……のが、放ち手も、受け手も、気持ち良いのではないか、と思います。

 

 

 

 

私は誰かに贈り物をする事は、実はほとんどありません。あげないようにしている訳でもないし、あげたくない訳でもないのですが、日常生活では「もらう一方」なのです(笑)

 

でも実は、昔は…なんだか心苦しくて、お返しをしたりしていました。その時はやはり「お返ししないとダメなんじゃないかな。もらいっぱなしでは申し訳ないな」と思っていました。せっかく良かれと思ってくださったものなのに、100%の喜びで受け取れていないのが伝わりますでしょうか……。もらった途端に既に「お返し」の心配をしているのです。「感謝や喜びを形にして」というよりは「お返しすることで申し訳なさをトントンにしよう」という考えからの行動を選んでいました。もちろん、無意識に、です。

 

 

これが、ここ数年の浄化で、自己肯定感が回復してきまして、この考えが全く無くなりました。

 

 

 

「いただく」

「わーい(´▽`*)」

「ありがとうございます♡♡♡(喜びを言葉にして伝える)」

終わり

 

 

感謝して受け取り、お礼を言った時点で「終わり」…です(笑)

 

お相手も好意からくださっていますし、それを100%有難く受け取れば、「わーい!ありがとう!」で完結することだったな(笑)と、今は素直に思います。

 

「物質的なモノ」に固執すれば、「モノをもらったら、モノを返す」のやり取りになるのかもしれませんが、「気持ち…というエネルギーのやりとり」と考えれば、「相手に喜んでもらいたいエネルギー」と「喜んで受け取ったエネルギー」の循環ができており、エネルギー的には、WIN-WINの関係で完結しているのです。

 

もちろん、相手によっては「あげてばかりで、ちっともお返しが来ない」と思う方もいらっしゃるかもしれません。が、それは私には関係ありません。そこで悶々としたり、釈然としないのであれば、それはその方にとっての「課題」であるわけです。

 

 

 

「これ、あげる」

「ありがとう!」

 

 

この単純で、素直なエネルギーは、とても軽いです。私は、こんなエネルギーが好きです。そこに、ウソや、謙遜や、誤魔化しや、見栄や、期待が無いからです。100%の本心が言葉や行動になったものは、とても気持ちが良いです。

 

良かれと思って本音が言えないとか、相手の気持ちを考えて意見を変えるとか、一見大人の対応のように見えるかもしれませんが、そのエネルギーは歪んでいます。そして、それはやっぱり「自己肯定感の低さ」から来ていると思います。

 

「常識」というものは、社会でみんなが心地よく過ごす為の、暗黙のルールとして、幼いころに、親から、先生から、社会から、言われてきました。子どもの素直な反応は、時としてこの「常識」の名の元に否定されました。

 

そうやって、「素直に思った事を言ったら、否定された」経験を沢山してきて、「常識的に生きる事」を優先してきました。

 

周りから注意されない年齢になる頃には、すっかりその概念は自分の中に浸透しており、今度は「自分が自分に注意し、自分が自分を否定して生きる」そんな大人が世の中には沢山います。

 

 

 

素晴らしい自分になってからしか、自分の事を認めないでいると、幸せを感知するハードルがめっちゃ高くなります。自分を認める為の条件がとんでもなく沢山あるのです。そうなると、いつもいつも自分を許せませんから、心がいつもキュっと固くなっています。

 

 

 

デコボコで、

あれもこれも出来なくても、

ただの、ありのままの、この私で、

ただの、私の、このままで

ただ、存在しているだけで、

すでに、素晴らしいのだ

 

 

そう思っていたら、幸せのハードルがめちゃめちゃ低くなります。もう、地面と同じレベルなので、スイスイ歩けます。ハードル、無いやん(笑)!!そうなると、風が吹いただけで、花が揺れただけで、空が青いだけで、それだけで「ああ、幸せだな」と感じるのです。

 

「私は幸せです」と言うと、「へぇ…いいですね」と言われます。「はい(笑)」答えますが、幸せって「ただ存在していること」ですから、それを感じられる自分であるだけです。それは、昔から自分を取り巻く世界はちっとも変化していないのに、自分が「その幸せはいつもあった」と気づくだけの事です。これこそが、「足るを知る」という意味なのではないか…と、今は感じます。別に仕事で素晴らしい成果を上げたわけでも、大金持ちになったわけでもないけれど、ただ、幸せを受け取れる自分になった、というだけのことです。

 

しかし、その「だけ」がとっても大きな事で。

人はそれを知る為に、人生を送っているのではないかな…とすら思います。

 

 

あなたは、何も出来なくても

ただ、あなたのままでいるだけで

それだけで、価値がある

 

 

そうしたら、もう目の前にハードルなんて、無くなる。あなたが幸せになる為に越えるべき、そそり立つ壁のような高いハードルだと思っていたものは、実は地面にめり込んでいた小さな、小さな小石だったりするのです。

 

インナーチャイルドの傷と向き合う事で、小石が取り除かれて、地面はフラットになる。そうして、風を受けて、道端の小さな花に気づき、小鳥のさえずりに気づき、スキップしながら歩く。

 

幸せにハードルなんて

ないんですよ…😊