私のこのブログの文章は、、読みやすいでしょうか(笑)。
読んでくれた知人や友人からは、わかりやすい、とよく感想をいただきます。
しかし、私は特に作文が得意だったわけでもなく、むしろ苦手意識が強かったのです。それがこうしてブログに思いを綴っているのですから、本当にわからないものです。
主人には、だいぶ経ってから『実はブログを書いてる』とカミングアウトしました。レイキマスターである事も話していなかったので、正直に話すのは勇気が要りました。書いている内容も、精神性の話も多いから、快く受け入れられるかわからない。けど、内緒にしているのはやっぱり嫌だと思って伝えました。
そうしたら、、
『凄くいい。文章もわかりやすい。』と絶賛してくれたんですΣ(゚д゚lll)ホッとしましたし、嬉しい気持ちになりました。そして、『けどあれ読んで、本当に喋るのは得意じゃないんだ、ってあらためて思った(笑)』と言われました。
主人にはその昔、プールに泳ぎに行って『歩くのより泳ぐ方が上手いね』と驚かれた事もあります。
歩くことや、話すことは、日常の中の動作や意思疎通の手段です。そこは、不器用なんですね。その場で瞬時に思ったことをまとめて伝えるのは、脳みそが追いつかない、という感覚があります。
けれど、文章は書きたいテーマが浮かぶと、言葉が次々と出てきて勝手に手が動いているのです。
違う言い回しが浮かんで書き直したりできる事も、より思った事に近い出来上がりにして提示できます。
対話の中での言葉、というのは…。とても不完全なツールだと思います。言葉自体が不完全だし、それを自分なりに組み立てても、心の全てを表現はしきれていない。それなのに時間は止まらず常に過ぎてゆき、言葉は印象だけを残して発した側から消えていく。
言葉が少ない人、というのは。もしかしたら、そんな不完全な言葉を組み立てて発するのに躊躇しているのかもしれない。
または、周りの会話のスピードに気持ちが追いつかないのかもしれない。
テンポよく話している人だって、思いの全てを言葉に乗せているかと言えば、そうでもないのかもしれない。
言葉を巧みに操っても、心が乗っていなければ本心は届かない。
なぜ、言葉があるのだろう。
不完全な状態で、相手へ言葉を投げかけ
相手も、自分なりの概念を抱えて、その言葉を受けとる。
私達って、心の全てを明け渡すテレパシーではなく、そんな不完全なコミュニケーションツールを使って生きている。
だから、『対話』が必要になる。
互いの思い違いを解きほぐし、理解を深めるには『対話』を避けては通れない。
その労力を惜しまずできるか。
どうせわかってもらえない、わかってもらえなくて当たり前、と諦めている人は、いっぱいいる。
心を明け渡して、やっぱり受け入れてもらえなかった時を想像したら、、その傷に耐えられない。
だから、
安全地帯から、当たり障りの無い言葉だけを投げる。本心は隠して、なんとなくの言葉を選んで投げかける。本心を乗せなければ、思ったような球が返ってこなくても、傷は浅い。
でも、、、それでいいんだろうか。
そんな関わり方のまま、生きていて、心の底から満足できるのだろうか。
本来、わかってもらえなくて当たり前。だって、言葉はそもそもが不完全なツール。たとえ分かり合えなかったとしても、それは貴方がダメな人間だからではない。そもそも言葉の1往復でスッキリ理解し合えるなんて事があり得ないんだって、わかったらどうだろう。
言葉というものは、2往復、3往復、時には10往復してようやく、『え!?そういう気持ちだったの?』と、わかり合えるものなのかもしれない。
だから1回で諦めるのは…早い。
傷ついた心はもう、分かり合えない傷を負いたく無いから2回目の対話を避ける。
それでも勇気を出すために。
もう、練習しかないと思う。分かり合えなかった人に挑むその前に、日常の中でこれでもか!という程、細かな事でも自分の本心を伝える努力をする。一度で伝わらなくても、自分はダメだとレッテルを貼らずに諦めないで伝える。
その時、言葉だけを使おうって思わなくていい。例えば『間』を使っていいんだ、って自分に許す。次々と言葉で説明しなきゃいけないってプレッシャーを自分にかけてしまうけれど。
そんな時に、焦る気持ちは、噛んだり、つっかえたり、黙ってしまったり……。でも、むしろそんな『間』がより本心を相手に伝える事ができたりする。『沈黙』は言葉以上に心を伝える。
音楽でも『休符』は『休み』とは違う。そのフレーズの中で『その拍の長さの音を発しない、という〝間″』の音楽を奏でている。沈黙を含めて音楽。沈黙は言葉と言葉を繋ぎ、心を伝える。
だから、、、自分を焦らさないで、待ってあげる。今まで、親や、先生や、社会に急かされていた人は、考える前に言葉が条件反射に出てしまう。
気持ちより先に言葉が出てしまう人も、なかなか言葉が出ない人も、、、本音を表せなかった、という点で実は同じ。
次の言葉が、心の奥から自然に発せるまで、沈黙の気まずさに負けない。あなたが、あなたを、待ってあげる。我慢強くじっと待ってあげる。気まずくても、そうして経過していく時間の全てが、貴方から発せられる波動の全てが、相手に届いてゆく。
本音を感じる練習。
自分から湧き出る言葉を待つ、ということ。
自分を大切にする、ということ。
自分との対話が出来てくると、不完全な言葉というツールを使って『対話』する勇気が湧いてくる。
そんなあなたを感じて、目の前の人も不器用ながら心を返してくれる。不器用な自分と向き合ったあなただからこそ、その不器用な目の前の人を冷たいとか、理解し合えないと短絡的な判断はしなくなる。
だって、同じだから、
だって、自分だから。
対話する勇気を、
これまで傷ついてきた全ての時代の自分へ。
そして、全ての人へ……🌈