子どもっぽい…の先に待っているもの

 

 

 

 

昨日の朝、脳裏にやってきた感覚……のお話です。

 

 

 

 

 

自己浄化の過程としてまず、本来の自分(魂)と現在の自分の乖離に気づく事から始まりますが、「乖離しているサイン」は、感情的な心地悪さ……です。

 

これまで当たり前に採用してきた「本心を呑み込んで、その場を流す」という作業に対して、「違和感」を感じる。いや、今までだって本当は「違和感」はあったのですが、条件反射で「そうは言ってもね…」「このくらいどうって事ないわ…」と、無かったことにする。

 

 

恐らく、全ての人が人生のタイムラインのどこかで、内側からの発火装置が作動するのですが、そのキッカケとなる出来事はいろいろなんですが、もう作動してしまったら、「無かったこと」にはできなくなります。

 

 

発火装置……というのは、魂からの「目覚めよ」の合図ですね。

 

 

「違和感」や「ネガティブな感情」は嫌なものですが、真の自分を思い出す為の祝福です。「それは君じゃないでしょ」「それは要らない荷物でしょ」…と。多くはインナーチャイルドの傷に由来する、感情の記憶の追体験をしていて、傷ついた過去の自分(見なかったことにして蓋をした)に気づき、共感し、昇華する……という一連の流れです。

 

この作業を、粛々と続けていると、徐々に今まで、所謂「いい子」「いい人」と言われてきた人が、「我慢しなくなってくる」のですね。本来の自分に戻る、というのは、「人間として素晴らしい人になる」のではなくて、「ただの、素直な自分」に戻るという事です。

 

他人に合わせて生きてきた人が、「自分の気持ちを優先して」生き始めます。

 

ここにも過程があって、最初は、湧いてきた感情に短絡的に反応し、それを優先させる……という、今まではやってこなかった事を自分に許す事から始まってきます。小さなことから、自分のやりたいこと、思った事を叶えていく。

 

「こうしたい」と咄嗟に感じた時。それと同時に条件反射で「でも、それはやっぱり無理」とか、「でも、それをしたらこんな不都合が待っている」とか、「それは迷惑をかける」とか、考えが浮かびます。これが、これまでの感情体験で採用してきた「概念」で、「エゴ」です。

 

最初は、なかなか「感情」→「即行動」はできません。傷つきたくない……という恐れに由来した「エゴ」の方を採用する癖がついているからです。

 

けれど、魂の発火装置が作動すると、この自然に沸き起こった「感情」を無視して「今までのやり方を採用する」と、ものすごい「違和感」を感じます。それは時間が経てば消えていくものではなくて、一度感じた「違和感」は、もう、それに対して自分が勇気を出してアクションしなければ、膨れ上がっていくばかりなのです。

 

違和感を感じた事に対して、目の前の相手を信頼して、勇気を出して「伝え」ます。そうすると、意外に大したことじゃなかったり、相手との思い違いを見つけられたりして、事態が悪化する……という事にはなりません。

 

「勇気を出して、良かった…」という経験を積んでいきます。そうすると、自分が自分に対しての信頼感が増していきます。私は、自分の気持ちを分かって、それを行動に移せたのだ、と。

 

 

こういう事を続けていくと、実は「本心だと思っていた事」が、エゴだったり、その下の下の奥底に本当の本心があったりすることもあり、その本当の本心と思ったもの…も、実はまだ更に奥があったりするのですが……とりあえず、表層意識に上ってきてくれた感情を頼りに、表皮を一枚一枚はがしていくしかありません。そうやって、徐々に自分と仲良くなっていきます。

 

 

……と、ここまでは、自分が日ごろやっている作業です。

 

 

で、前置きが長くなったのですが、昨日の朝にやってきた感覚というのは、本来の自分との乖離が無くなると、社会通念的には、自分の気持ちを100%採用して生きているある意味子どもっぽい人、になるというか…。(私は実際に家族からは「この中で一番こども」と言われている)

 

 

子どもっぽい人と、我儘な人、というのは、イコールで考えられる事もあるかもしれませんが、「ワガママ」というのは、私の感覚で言えば、自分の内面の悲しさや苦しさを分かってもらえない無念さから、周りに対して、本来の自分の気持ちとは、全然違う要求をしてしまい、またそれを自分で気づいておらず、トンチンカンになり、相手を困惑させる←本心と違うから相手もも気持ちよく受け取れない…という事かな、と感じます。

 

なので、我儘……な状態であれば、まず最初の工程からやる必要があるのですが、「子供っぽい」というのは、それとは違って「自分の気持ちに素直」になれているので、ある程度の浄化が進んだ状態であると言えます。「自分の素直な感情を、相手を信頼して伝えられる」「伝えた結果をコントロールする概念は手放している」

 

自分は今、この状況なのかなと自覚していますが、この時「相手には相手の気持ちや考えがあるから、それはそのままでいい」となります。そうすると、これは性格のせいもあると思うのですが、人それぞれで良し……、で完結します。

 

これだと、考えの違う相手と共闘して、何か新しいものを生み出していくような、「大きな渦」になる事は無いんです。

 

 

でも、もしかしたら、互いを更に深く知って、無から有を生み出すような事……も、在るのかもしれないな、と。

 

「奉仕」という言葉があまり好きではなく、誰かが誰かを助ける時に「自己犠牲」が伴う事を良しとする風潮に違和感がありました。それは今でもそうなのですが、

 

本来の「奉仕」という状態は、使命感や自己犠牲の先にある行動などではなくて、傷ついて穴が空いていた自分の箱が満たされた時、自然に沸き起こる感情なのでは……?と感じたのです。

 

 

子どもっぽい=我まま

奉仕=自己犠牲

 

 

 

ではなくて……

 

 

子どもっぽい=素直

奉仕=満たされた箱から漏れ出たもの

 

 

 

「奉仕」の気持ちがわいてこないからといって、それを「性格だから」と決めるのは、まだ早いのかもしれない……という気づきだったのでした。そう感じた時、ああまだ自分はインナーチャイルドを癒していて、自分の素直な気持ちを、周りの人に対して出していき、自己肯定感を育てている最中なんだろうな…と自覚したのです。

 

 

満たされた箱から漏れ出るようになった感情を、「愛」と呼ぶのかもしれません。

そして、それは特別な事ではなくて、誰にでもそもそも備わっているもの。枯渇した自分が絞り出すのではなくて、いろいろ考えなくても、心配しなくても、誰でも満たされれば自然にあふれるもの……。

 

 

 

全ての人が、自分自身の破れた箱を修復し、自分への愛を満たしていけば、

 

 

 

自然に漏れ出た愛で、世界中は満たされる……と思いました。